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2007年2月10日 (土)

内村と教派主義

 無教会主義を唱え、日本のキリスト教界はじめ一般社会にも大きな影響を与え、今なお、その著書が読みつがれている内村鑑三が世を去ったのは、日本が15年戦争に入る直前の1930(昭和5)年であった。従って、内村亡きあと、もう70年余が経った。今も、内村研究は日本思想研究家にとっては魅力あるテーマだが、特に彼が晩年、米国から来た老婦人宣教師との「書簡論争」を取り上げて、その「峻烈なる洞察」を考えてみたい。

 国際基督教大学名誉教授で長年、思想史を研究してきた武田清子さんは、著書『峻烈なる洞察と寛容 内村鑑三をめぐって』(教文館)の中で、内村の信仰における「峻烈なる洞察」の意味を、こう述べている。

 「内村鑑三は苛烈なる信仰、峻烈なる洞察の持主でした。この信仰、洞察が、彼に接した人々に対してだけでなく、時の流れを超えて、今日にいたるまで、霊に訴える精神的なインパクトを私どもに与え続ける存在だと思います。内村は、彼の指導に従った人たちにも、また、彼の烈しさに堪えられず躓いて彼のもとを去った人たち、棄教して『背教者』となった人たちに対しても、彼の峻烈な洞察、その問題提起を無視して通りすぎることを許さない、ある深い霊的インパクトを持続して与える存在だといえると思います」

 その書物の「断想」中に「ミス・パミリーとの論争-セクテリアニズムをめぐって-」という項目がある。当時67歳の内村と75歳になるアメリカの婦人宣教師との「文字どおり火花の散るような論争」を扱ったものだ。

 武田さんは言う。

 「いつのことだったか、パミリー女史と内村鑑三との往復書簡が袋に入って古本屋にあったので、少し高価だったのですが、購入したのです。これらは、それまで知られていなかったものだったのですね。おのおの、ペンで走り書きした手紙を読んでいくうちに、私もだんだんに興奮してゆくのを感じました。

 それで、パミリーという人物に関心を持ち、内村の資料も調べ、往復書簡の英文内容をタイプで打って、ICUの紀要に発表しました。その日本文の解説部分が『峻烈なる洞察と寛容』に出ているのです」

 そのICUの紀要とは『アジア文化研究6』(1972年12月)で、「内村鑑三の未公開書簡」という表題で日本文と英文の寄稿がある。その往復書簡の原本は現在、ICU図書館でマイクロフィルム化されて、大切に保管されている。

 内村鑑三と、当時、近江八幡町土田に在住していたフランシス・パミリー女史との間に論争が起きたのは1927(昭和2)年11月から12月にかけてで、時期としては長くはない。

 ハリエット・フランシス・パミリー女史は1852年5月13日、米・オハイオ州ツウィンスブルグに生まれ、1877(明治10)年10月、アメリカン・ボード宣教師として神戸に着いた。女史は、創立期の同志社女学校の英語教師になり、その後、津、前橋、松山、明石で伝道、また前橋の共愛女学校、松山の松山女学校でも教え、1924(大正13)年に引退、近江八幡や京都に住んだ。そのころ、内村との論争があったのだ。

 内村との論争のきっかけは、内村が編集していた『ジャパン・クリスチャン・インテリジェンサー』(1927年11月号=第2巻9号)に書いた「Again about Sectarianism」(再び教派主義について)という表題の文章だった。

 内村は、そこで、「アングロ・サクソン系の人々、およびその感化の下にある人々ほど教派的な国民がほかにあろうか」と言い、多くの教会があることを具体的に取り上げ、「その各々が、絶対の真理を所有すると主張する」という。それらの教会は、他教会の信徒には満足せずに改宗させる。内村は、そんな教派主義を「キリスト教の精神そのものに反している」と言う。

 これを読んだパミリー女史は、内村への手紙(1927年11月20日)で、カナダやアメリカでの教会合同の動きを伝え、「あなたは新しいセクトをつくりつある。それは"内村教会"とも呼ぶべきもので、その教義の一つは他の諸教会を嫌うことだ」と断定した。

 この手紙に激怒した内村は11月下旬から12月上旬にかけて、「パミリー老嬢行」と封筒に宛名を書いて、ほとんど毎日、挑戦状的手紙を書いた。パミリー女史あて内村の最初の手紙は11月22日に書かれ、続いて同28日、同29日、同30日、12月1日、同2日、同3日、同5日にも投函されている。

 パミリー女史は、内村の望む雑誌上での公開論争を避けたかったようで、木村清松牧師あてに、内村からの攻撃の手紙類を送って、善処を依頼した。12月10日、同17日、内村は、木村清松にも書簡を送っている。

 内村は、1927年12月10日に出た『ジャパン・クリスチャン・インテリジェンサー』(第2巻10号)の「編集者覚書」で、パーミリー女史の名を出して、彼女は、私と同誌前号掲載の「セクト主義」の記事を激しく批判したが、この問題での公開の論争を拒否した、と述べているが、この号は、同時に「来年2月号を以て本誌を廃刊」との予告を出している。パーミリー女史との論争が影響したのだろうか。

 武田さんは、E・トレルチのいう「セクト・タイプ」を「プロテスタント教会でさえも体制化して日常化し、世俗の権力と妥協をもちはじめる時、その内的真理を鋭く堅持した少数者のグループが外在的批判力となって真理の再確認のために活動するもの」として、「無教会」の意味を積極的に評価している。しかし、同時に「内村がこの論争で排他的分裂主義者としての"セクト主義者"とよばれることを極度に嫌い、ひたむきにそれを拒否していることは興味深い」と述べている。

 なぜ、内村はセクト主義者と言われることを、そんなに嫌ったのだろうか。

(以前、このテーマを、ある週刊新聞に取り上げたことがあります)

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コメント

明治以降の日本近代は、西洋の近世を導入しようとしたのだと思います。その中で、キリスト教は教派主義になっていました。西洋近世の開幕には、もちろん科学的思考など評価すべき面があります。しかし、キリスト教が教派として多数の教会が生まれてくると、別の問題も出てきます。
内村は、そのような弊害を知っていた。そして、その弊害を超えようとした。プロテスタンティズムの中に生まれ、その徹底を志向して、その弊害を超えようとした。それが内村だったと、私は思っています。無教会主義というのは、無教派主義、無境界主義を意味するのではないだろうか、と思います。だから、「あんたも教派主義じゃないか」と女性宣教師に言われた時、内村は「むっ」としたのではないかと思います。

投稿: | 2007年2月11日 (日) 12時51分

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