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2007年2月 7日 (水)

平田篤胤のこと

平田篤胤に関心があるのは、その思想に対するキリスト教の影響の故である。幕府の目を盗んで、どうして、ご禁制の書物を読み、それを自分の著作の中に取り入れたのだろうか。

この問題を解く鍵が、島崎藤村の意識の中にあるかも知れない。「夜明け前」という小説の主人公・青山半蔵のモデルは、藤村の父、島崎正樹(1831-86)である。彼は平田篤胤没後の門人の一人であったという。

「藤村文明論集」(十川信介編、岩波文庫)という書物がある。その「回顧」によれば、平田派全盛時代の頂点は明治元年前後で、篤胤没後の門人が全国で4000人にも達したという。しかし、この勢力は急激に凋落する。

篤胤の神観は宣長のそれと異なり、著述の中には耶蘇教の神という言葉もある。では何故、篤胤は耶蘇教の神を導入できたのか。

藤村は、こう言のである。

「そんなら父らの先師はどんな風に西洋を考えていたろうかというに、
『もろもろの学問の道、たとひ外国の事にしろ御国人が学ぶからは、そのよきことを撰んで御国の用にせんとのことでござる。さすれば、実は漢土は勿論、阿蘭陀の学問をも、すべて御国学びと言つても違はぬほどのこと、即ちこれが御国人にして外国の事を学ぶ者の心得でござる。』
 この考えを推し進めて行けば、わが国の人の外国語を習得し外国の学問を修むることは、実は国学の一部門であるということになる。篤胤は一概に西洋を排斥しようとするほど決して頑な人ではなく、新井白石の『采覧異言』、山村昌永の『増訳采覧異言』にも触れ、また蘭医ケンペルが『日本志』にも触れて、相応に世界のことに通じ、またわが国の世界に伍する位置をも考え合せ、かく西洋の書籍なども次ぎ次ぎに渡来して世に弘まり初めたのは、即ち神の大御心であろうとした」(「藤村文明論集」中の「回顧」247頁)

篤胤には篤胤の理屈があったのだろう。こんな理屈を、どこかで読んだことがあった。

外国を知ることは、外国に服従し、屈服することではなくて、自分の国を知ることなのだという。今でも通用するのではないだろうか。

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