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2007年2月20日 (火)

国教後

イスラムの意味は絶対帰依なのだという。絶対他力のようなものなのだろうか。その成立は、キリスト教後であり、ローマ帝国での国教後である。

国教によって、キリスト教の変質を指摘した人にエーリッヒ・フロムがいた。その変質へのアンチ・テーゼのような意味を、イスラム教が持っていたのではないだろうか。もちろん、三位一体を否定するところでは、似ていても別の宗教なのだが、そんな思いをもつことがある。

その後、同じような姿勢で、プロテスタントが登場する。こちらは、同じ宗教の中での絶対他力信仰による抗議であった。

イスラムの登場のあと、正教会の分離があった。それも、フィリオクェ解釈の相違が原因と言われるけれど、国教と神の国とのずれが問われたのではなかったろうか。

ローマ帝国でのキリスト教の国教化、それは、皇帝の改宗後の一つの帰結であったが、その後も、物語は続いているのであった。それが、イスラム教、正教会、プロテスタントなのではないだろうか。

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コメント

フィリオクェ論争の背後には、東西教会の体質の相違があるのだろう。それは、やがて教皇皇帝主義、皇帝教皇主義の相違になる。ローマの教皇皇帝主義は、此岸重視の政治的関心、また、ギリシャ・ロシアの皇帝教皇主義は彼岸主義で、終末論に関心がある。こんな違いを見据えて、フィリオクェ論争の意味を探っていくのは、面白いと思う。

投稿: | 2007年2月20日 (火) 12時05分

コンスタンティヌス帝によるキリスト教の公認は313年で、その後、380年には国教になり、392年にはキリスト教以外の宗教が禁止された。キリスト教的ローマ帝国の成立。この幻が、EUの中にあるかも知れないし、また、米国の中にもあるかも知れない。

しかし、395年にはローマ帝国は東西に分裂する。そして、西ローマ帝国は476年に滅んでしまう。それにともない、ローマ教会は東ローマ帝国の指導下に入るが、教皇は東ローマ帝国(ビザンツ帝国)の皇帝教皇主義に反発していく。

1054年に東西教会の分裂。

しかし、西ローマ帝国の復興の理念は残り、800年に出来たカール大帝の帝国、962年のオットー1世の神聖ローマ帝国も、その形式的復興と言われている。

投稿: | 2007年2月20日 (火) 18時55分

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