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2007年3月23日 (金)

子供のころ、死がなんとなく怖かった
自分の死もそうだが、家族の死も、同様に怖かった
   
しかし、転機があり、死とは眠りのようなものに思われた
一日の疲れに包まれた安らぎの眠りがあるように
   
死もまた、好ましいように思われた
死と眠りの間には類似性があるのかも知れない
   
輪廻転生も復活も
新しい生がある、といっている
   
死に希望を発見して
死は怖くなくなった

歴史を扱った映画や小説などでは、人間が簡単に死んでしまうシーンがよく出てくる。これは、人間の物化を助長するものとして問題を感じていた。

しかし、死というものは、人間の最大のテーマである。このテーマに取り組まないでは、人に感動を与えないであろう。その意味で、死が出てくるというのは、しかたのないことである。実存的なテーマが、人間にとって大切なのである。

人間を「死に向かう存在」と言ったのは、ハイデガーであった。死は未来に人が出会う時である。その意味で、その言葉は間違いではない。しかし、死が無意味を意味するのであれば、無意味を目的とする存在は、ありえない。そんなところに、この人間定義への疑問があるのかも知れない。

人間の存在を支えるのは意味であり、価値である。意味、価値のないところでは、人間は存在を支えられないのである。しかし、死は、それらを抹殺してしまう。だから、人は死を考えないようにして生きるのである。

しかし、事実を曲げることはできない。真面目に人生を考えようとする時、人はニヒリズムに陥り、恐らく、真面目な人であれば、生きることができなくなるはずである。

多くの宗教がある。イスラム教、ユダヤ教、そしてキリスト教の一神教、それに仏教。しかし、死の解決として、復活を提示しているのはキリスト教のみである。こんなことは誰でも知っている。しかし、本当に誰も真剣に考えようとはしない。

死を無意味、無価値としてではなく、逆に意味あること、価値あることとして考えるべきだ。悲しむべきことではなくして、喜ぶべきこととして考えるべきだ。それは、普通の人の価値観の中では矛盾であり、葛藤を生み出すだろう。しかし、人間が健全に発達を遂げるには、そう考える以外に方法がないのである。死を完全に肯定し、かつ意味あらしめるためには、復活を考えるしか道はないのである。

黒沢明監督の映画「夢」の中に出てくる、死を喜ぶシーンは、今も多くの人々に考えさせるものを持っているのだ。死を本当に喜べるのだろうか。その根拠は。

人は死ぬ それもまた良し 死なざれば
 地球に人は 溢れるばかり

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