« 自己分析 | トップページ | 父子 »

2007年3月 3日 (土)

北村透谷

 明治の生んだ天才詩人で文芸評論家であった北村透谷(一八六八~一八九四)は近代文学の地平を切り開いた人で、詩、評論、戯曲、書簡と、残されたものは多くはないが、今なお、語り尽くせぬもの、汲み出しつくせぬものを秘めていると言われる。

 この若き詩人透谷に「君よ、請ふ、生をラブせよ。生も比身のあらん限りは君をラブすべし」との求愛の手紙を書かせ、恋愛のすえ結ばれた妻・美那子(一八六五~一九四二)は同時に透谷をキリスト教に導き、自ら、信仰の生涯を全うした人でもある。

 東京都町田市は美那子の生地であり、夫・北村透谷に関する資料館や、ゆかりの地がある。

 美那子のキリスト教的背景は『透谷の妻』(江刺昭子著、日本エディタースクール出版部)に詳しいが、同書を片手に、町田市内に自由民権資料館や、「自由民権の碑」を巡っていけば、透谷に対する興味が新たにされることだろう。

 小田急・鶴川駅東口を下車、0番バス停から、野津田車庫行きか、本町田経由町田駅行きのバスに乗り、「綾部入口」で下車すると、右側に大きな日本風家屋がある。「自由民権資料館」である。

 階段を登って、資料館に入ると「青春~石阪三姉弟と北村透谷~」というコーナーがある(このコーナーでは、透谷の妻は「美那」と表記されているが、戸籍名はみな、ミナ、美那子の三通りで、本人は美那、美那子、ミナを使っているという)。

 このコーナーには、一八八九年ころの美那子の「決意書」(結婚に関するものかも知れない)、米国から帰国した美那子が自宅で英語塾を開いた時の英会話夏期講習会の広告、美那子の書簡、また、渡米直前、留学中、晩年の写真が飾られている。そこにある主要な資料は、『透谷の妻』に掲載されている。

 一方、透谷関係では、娘を抱いた写真、透谷の原稿、彼が美那子の父・昌孝に宛てた書簡やハガキ、それに、自作を発表した『女学雑誌』などが展示されている。

Kita  もう一つの、透谷ゆかりの地が、そこから町田駅行きバスに乗り、「薬師ケ丘」で降りた所にある。バスを降りて通りを横切り、向かいにある奥の方の山を登った頂上が「ぼたん園」で、その一角に「自由民権の碑」(写真)がある。

 「自由民権の碑」は、一九八五年十一月三日、建碑実行委員会によって建立された。「撰文・渡辺奨、揮毫・色川大吉、設計・友田仁」の名が碑の裏に刻まれている。

 碑のデザインは、大小のみかげ石が、あたかも抱き合うような形で、「透谷美那子出会いの地」という文字の左に、二人の出会いのいきさつを書いたプレートがある。

 そこには、「透谷文学に大きな影響を与えたキリスト教への入信も、この出会いがあったからである」と書かれている。

 透谷との結婚生活はわずか五年半に過ぎなかったが、透谷文学のキリスト教的要素は妻・美那子の信仰の影響なのである。

[メモ]自由民権資料館(電話042-734-4508、195-0063 町田市野津田町897)= 小田急・鶴川下車、東口0番のバス停から、①野津田車庫行き、②本町田経由町田駅行き、のバスに乗り、綾部入口で下車。月は休館。なお、「自由民権の碑」は②で薬師ケ丘下車。ぼたん園の一角にある。

|

« 自己分析 | トップページ | 父子 »

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




« 自己分析 | トップページ | 父子 »