« ドイツの教会 | トップページ | インターネット »

2007年3月19日 (月)

「我思う」再考

デカルトの「我思う。故に我在り」は、どのように解釈すべきか。これは、「我思う」の中に、人間存在の究極的根拠を置くということで、これまで多くは、この解釈を取ってきた。自立存在の原点としての「我思う」が、一般的解釈ではなかっただろうか。

これに対して、キリスト教信仰の側では、神との関わりの中で、存在というものを捉えるのであるから、このデカルトの立場は、神から分離しても人間存在というものは確立できるというように考えられ、そこにメスを入れたのである。北森嘉蔵氏のデカルト批判も、そうである。

しかし、「我思う」について、別の観点も大切と思った。

昨日(93年4月13日)、立花隆氏がコリン・ウィルソン氏と対談(メディアは不明)していた中で、人間存在がただ意識だけの状態になった時、立花氏は、デカルトの言葉「我思う。故に我在り」を思い出したという。これは、人間の本質が意識、あるいは理性ということの意味で捉えるのであれば、それは、その限りでは正しい理解であろう。「我思う。故に我在り」という言葉を「人間は理性的動物」という言葉に置き換えれば、何も問題はないのである。その制約の中での言葉であれば、問題はない。

しかし、そうではなくして、人間の究極的存在、全くの自立的存在としての支えとして「我思う」が登場したのであるから、問題を提起したのではなかったか。

|

« ドイツの教会 | トップページ | インターネット »

コメント

デカルトの方法的懐疑というものは、禅における大疑現前の大疑ではないのだと思う。そして、人間にとっては、大疑の解決の方が第一義的なのだと思う。

投稿: | 2007年3月19日 (月) 19時37分

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




« ドイツの教会 | トップページ | インターネット »