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2007年3月26日 (月)

信仰義認論

ルターは、自分の発見した信仰義認をアウグスティヌスも説いていることを知った。しかし、両者では違いがあるのだという。

アウグスティヌスの場合には、その義認は罪人を事実において義人にしていく神の恩恵、すなわち「義化」を意味しているという。今は余り使われないが、かつては義化とか、成義という言葉がカトリック教会の中で使われていた。戦前の本では、よく出てくる言葉である。

一方、ルターの場合は、「義人にして同時に罪人」という有名な言葉で表現される。「罪人のままで義人と宣言される」「宣義」という立場なのだという。

この両者は、違っているように見えるけれど、根本は一緒なのだと思う。義化とか成義といっても、信仰義認を根本とした聖化論であるし(従って、ペラギウス、セミ・ペラギウスではない)、宣義といっても、聖化を無視するわけではないと思う。

「義人にして同時に罪人」という立場は、絶望的な人間の現実に常に希望を与えるものとして分からないわけではないが、回心前の人と回心後の人では、やはり違いがあるように思う。聖霊の、その人における感化というものが、この言葉で、どう表現されているのだろうか。

(『教育改革者ルター』金子晴勇著、教文館、206-207頁を参照)

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