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2007年3月22日 (木)

短歌論

■1

短歌とは シュプレヒコール 我にとり
 続けていけば 歴史も動く

短歌とは 思いを乗せる 器なり
 日本由来の シュプレヒコール

短歌にて シュプレヒコール 続けよう
 日本文化の 伝統に立ち

シュプレヒコールは最近は余り聞きませんが、大学紛争の時、シュプレヒコールは日常的なことで、よく聞きました。しかし、今は、どこかに行ってしまいました。

短歌はシュプレヒコールのようなものかも知れません。それは祈り、願い、一つ一つはたわいなくとも、継続していけば、やがて効果を生む。短歌も本質をつくのであれば、たとえ、見かけはたわいなく見えても、簡単・単純に見えても、その効果を期待できるのではないでしょうか。もちろん、専門家にとっては、こんな見解は邪道かも知れません。

日本文化の短詩には俳句もあります。俳句愛好者には申し訳ありませんが、私としては、俳句より短歌に期待しています。俳句は短か過ぎます。短歌も短いのですが、それでも、何かを伝えることができます。両方とも、添え書きがあれば、もっとよいと思います。

■2

短歌とは 見出し文化 見出し見て
 想像すれば 頭体操

短歌にて 思想表現 評価する
 鶴見先生 本の広告

2007年3月11日の朝日新聞と思いますが、広告欄で、故鶴見和子氏が、短歌は思想表現のよい道具というようなことを言っていました。この文字数の決まりを守って、思想だって表現できる。私は、そう思っています。

見出し、キーワードで、全体をまず想像している。それは情報過多の現代社会に生きる上で大切な方法ではないでしょうか。短歌の、私流の楽しみ方です。

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