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2007年3月 4日 (日)

霊魂のゆくえ

人は死後、どうなるのだろうか。自殺が問題になっているが、自殺を思う人たちは、この問題を、どう考えているのだろうか。簡単に答えたり、問いを無視したり、いろいろな対応があろうが、一度、本気になって、問い、また回答を探してみたらどうだろうか。なぜなら、生きているみんなの真剣な問題でなければならないと、私は思うから。民俗学の柳田國男の関心も、そのへんにあったようである。

「定本柳田國男集」(筑摩書房刊)の「月報16」(昭和44年9月)にある佐古純一郎氏の「大いなる遺産」という柳田國男印象記には、「霊魂のゆくえ」を思案する柳田の姿が書かれている。

佐古氏は戦後、創元社の編集部に復職して柳田國男の係になり、成城学園の柳田宅を訪れた。その時、いろいろと質問を浴びせかけたようだが、「柳田先生ほど、しんけんに、霊魂のゆくえについてお考えになっている方を、わたしは存じませんでした」と、次のように言っている。

「昭和二十三年の五月にわたしはキリスト教の洗礼を受けたあと、はじめて柳田先生をお訪ねしたとき、おそるおそる、そのことを申しあげました。ひょっとして、そのことで先生から批判されるのではないか、というけねんがわたくしにはあったのです。そのとき先生はひとこと、『それはよかったね』とおっしゃって下さいました。それからあと、先生のもとにお邪魔するたびに、むしろ先生のほうからわたくしに向って、『こういうことはキリスト教ではどう考えるのかね』『きみは、ほんとうに復活を信じるのかね』といったぐあいに、いろいろとおきき下さるのが常でした。そうしてあるときには、『きみなども、キリスト教を宣伝するのなら、ぼくのような人間を改信させるくらいでないとだめだよ』などとおっしゃるのでした。それはけっして、わたくしをひやかしてそんなふうにおっしゃるのではなく、なにかやはり、いつも、ご自分の霊魂のゆくえを思案していらっしゃる先生のしんしなお心からの、ほんとうにへりくだったお言葉なのでした」

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コメント

 最初に、貴方のハンドル・ネームか何かを教えていただきたいのですが。

 ところで、貴方御自身は、霊魂についてどのようにお考えですか。肉体とは別に霊魂があるとお考えですか。あるいは、肉体の死と共に霊魂も滅び、最後の審判の日に肉体と共に甦るとお考えですか。

 私は霊肉二元論の立場ですが、霊とは神の前における人間存在のあり方であるという考え方も捨てることはできません。

投稿: 旅人 | 2007年3月 5日 (月) 16時27分

旅人さん、コメント、ありがとうございます。

>最初に、貴方のハンドル・ネームか何かを教えていただきたいのですが。

正式には安楽岡登馬で、略して登馬という場合もあります。tomaでもいいと思います。tonmaだと、ちょっと困りますけど。

「98年ころ、パソコン通信で「ハレルヤ・ハレルヤ」に書き込みをしていた。その時のハンドル名は安楽岡登馬であった。安楽岡は私の小学生時代の家庭教師の名前であった。東大野球部に所属していて、卒業後、第一銀行に勤め、第一勧銀の支店長になったが、亡くなられたと聞いた。私にとって、人生でもう一度帰りたい、よい時代であった。安楽岡登馬には、意味がある。こんなものであった。安楽な岡(これが人生の目的・目標)に馬で登るという意味である。馬はペガサスがいいかも知れない。また、登馬(とうま)でトマスを意味させようと思った。中世の神学者、トマス・アクィナスである。」(2005年5月5日)

山田晶氏の『トマス・アクィナス』(世界の名著、中央公論社)の注は、大変面白かったので、一読をお勧めします。登馬も、tomaも、そういう意味にお受け取りください。

投稿、コメントなど、だいたい一人で書いているので、ハンドル・ネームは省略してきました。しかし、これからは他の人のコメントの場合は、ハンドル・ネームをつけることにします。

> ところで、貴方御自身は、霊魂についてどのようにお考えですか。肉体と
>は別に霊魂があるとお考えですか。あるいは、肉体の死と共に霊魂も滅び、
>最後の審判の日に肉体と共に甦るとお考えですか。

人間の構成要素に関して、霊と肉といったり、霊と心と体といったりしているようです。霊と肉といった場合、聖書では構成要素というよりも、神との関係における人間の在り方といった意味でしょう。構成要素といった場合は、霊と心と体の三つに分けた方が考えやすいのではないかと思います。人間の見える部分が体、見えない部分が心であり、心の中の神と接する場所が霊でしょうか。心理学というと、心の学でしょうが、精神分析とかユング心理学などは、霊の部分を扱っていて、キリスト教の神学者たちも無視はできないように思います。
肉体には、死があります。同時に心も機能を停止します。心が霊魂であれば、ここで霊魂も滅びるのだといってもいいかも知れません。しかし、キリスト者の場合は、神の霊(聖霊)を受けていて、その感覚はニヒリズムからの真の解放なのだと思います。だから、人間自身を指し示す霊魂の言葉において「滅びる」という感覚はないのだと思います。人間にとって、死後がどうなるかは死んでみなければ分からないのですが、ニヒリズムからの解放は、生きている間に可能と思います。そして、それが求められているように思います。復活信仰というのは、肉体が死んでから、再臨の時にすべての人が肉体的に復活することを、ただ盲目的に信じるというよりも、生きている間に、そのきっかけ(聖霊降臨の体験)をつかむことが求められているように思います。

> 私は霊肉二元論の立場ですが、霊とは神の前における人間存在のあり方で
>あるという考え方も捨てることはできません。

霊というのは、パウロによれば、神の恵みの下に、それを自覚して生きる人間の在り方を指しているように思います。

投稿: toma | 2007年3月 5日 (月) 20時32分

 登馬さん、お答えありがとうございました。これからもよろしくお願いします。

投稿: 旅人 | 2007年3月 6日 (火) 09時44分

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