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2007年4月21日 (土)

洗礼雑感

洗礼について、ある神父は、こんな指摘をされています。

「中世では、特にアリストレス哲学の影響で、洗礼が救いの絶対的条件になった。しかし、それまでは、そうでなかった。救いは神の恵みです。洗礼は教会の「しるし」です。だから、洗礼と救いは同じではない。私達の「しるし」は神の恵みを束縛してはいない。」

「洗礼が救いの絶対条件」という考え方は、私が読んできたプロテスタント系の本のカトリック批判に、よく出てきた考え方です。しかし、この考え方は、特にアリストレス哲学の影響で、中世に盛んだったということでは、スコラ思想の中でも、またトマス・アクィナスも主張していたのかな、と思いましたが、まだ文献を調べていません。ルターのアリストテレス批判の強さを思う時、その背景には、このような考え方があったのかな、と思います。であれば、理解も進みます。ルターは、あるところでは、洗礼も救いには必要ないと考えていた、と書かれていました。

私は、今、「洗礼が救いの絶対条件」とは思っていません。しかし、この場合の洗礼は、水の洗礼を差しています。でも、回心がない時、救われるのかというと、この方は絶対必要と思います。そこまで譲ってしまえば、福音も不必要になってしまいます。

回心しているけれど、洗礼を受けていない人もいます。無教会、クエーカー、救世軍の人たち。もし、「洗礼が救いの絶対条件」というのであれば、その言葉は、あの人たちは救われていないという意味に受け取られがちで、そこまで言うのは間違いと思います。

ところで、カトリック教会の教えの中には、プロテスタントでは「聞きなれない」「望みの洗礼」という言葉があります。ある神父は、こう言っています。

「神学者は救われるためには「望みの洗礼」があればそれで十分だということになりました。20世紀になり「洗礼を望まない人」は救われないのかとの問いがでてくると、「チャンスがあれば望んだであろう人」も救いに含まれるとしました。そこまで来ると、正直に言って、「しるし」は相対的になってくると思います」

「望みの洗礼」は回心を指すのでしょうが、また、それよりも広い概念とも思えます。

では、水の洗礼は不必要かというと、やはり、信徒と、そうでない人を、どこかで区別する必要はあるのではないかと思います。その時、洗礼というものが採用されたのだと思います。

改革派系の神学では、洗礼を旧約の割礼に結び付けます。旧約とのつながりを重視するところから来ているのかも知れません。しかし、私は、洗礼は新生と結び付けたいと思います。洗礼は新生、聖餐(ミサ)は聖化との関係を考えるのです。新生は未信者のゴール、聖化(栄化)は信者のゴール、そのゴールの見えるしるしとして、洗礼と聖餐があるように思います。この二つのしるしの中に全人類、すべての人が包含されています。だから、プロテスタント教会は、洗礼と聖餐の二つのしるしを残したのだと思います。

洗礼と聖餐は見える儀式です。しかし、その儀式を通して、その意味を探っていく時、新生と聖化の瞑想に導かれる時、そこには大きな収穫があるように思います。

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コメント

例えば、『キリスト教概論』(浅野順一編)には、「ルターにとっては、人間の救いにとっての礼典は結局のところ無くてもよいのである」という言葉がありました。だから、無教会の考え方も、ルターの中に根拠があると言えるかも知れません。しかし、ルターの教会は礼典を持っています。地上を旅する信徒の共同体にとって、やはり礼典には意味があると認めたのかも知れません。

また、この本には、「カトリック信者には、自分の罪が完全にゆるされているという確信を持つことは禁じられている」ともありました。どういう意味なのか、よく分かりませんが、どんな信徒であろうと、地上の生活には「完全聖化」はない、という意味なのでしょうか。あるいは信徒における新生体験に対する疑義の表明なのでしょうか。

投稿: | 2007年4月21日 (土) 16時15分

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