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2007年4月10日 (火)

内村鑑三試論④

●カトリックへの関心

 内村鑑三はプロテスタント批判を続けていく中で、カトリック信仰に近づく。その証拠は、次のような素晴らしいカトリック教会賛美の言葉となって現れている。一体、カトリックの信者で自らの属する教会を、これほどまでに美しく表現した者がいただろうか。私は、あえて「いや、一人もいなかった」と言いたい。これは「聖書之研究」(一九〇七年五月)に発表されたもので、内村が46歳の時のことである。何が、このような文章を書かせたのだろうか、それも知りたいところではある。次のようである。

 「最も貴むべき教会 ローマ・カトリック教会(教友某と下野太平山に遊びし途中、語りしところ)

 余は今は無教会信者である。しかしながら、もし教会に入るとするならば、余はローマ・カトリック教会(天主教会)に入ろうと欲(おも)う。これは最も古い、最も固い、最も世界的にして、最も完備せる教会である。これは新教諸教会のような成り上りの教会ではない。これは二千年間の歴史に深き根拠をすえたる最も歴史的の教会である。もし信仰を維持するために制度の必要があり教職の必要があるというならば、余輩はかかる強固なる、かかる完備せる教会に入るべきである。

 新教の教師は言う、ローマ・カトリック教会は腐敗していると。しかしもし腐敗の事であるならば、新教の諸教会とてもカトリック教会に譲らない。ことに米国の新教諸教会のごときに至っては、その腐敗たるや実に言語に絶えたるものがある。もし教会をそのおちいりし腐敗によってさばくならば、世に取るに足るべき教会は一つもなくなる。余輩は、カトリック教会が腐敗しておればとて、その荘厳と堅牢とを疑わない。

 また言う、カトリック教会に信仰の自由がないと。しかし余輩はそうは信じない。もちろん教会として立つ以上は多少の束縛のあるのはやむを得ない。そうしてカトリック教会の束縛なるものは、その世界的であるだけ、それだけ寛(ゆるや)かである。余輩は自由を標榜(ひょうぼう)する小なる新教会の中に最も厳酷なる束縛のおこなわれておるを知る。二十世紀今日のカトリック教会はルーテル在世当時のそれではない。カトリック教会の偉大なる理由の一つは、その世と共に変遷進歩するの一事である。

 (中略)

 ローマ・カトリック教会は貴婦人的教会である。その聖マリヤ崇拝はよくその理想をあらわしている。カトリック教会に、新教諸教会におるような鉄面婦人はおらない。婦人らしき婦人を、余輩は最も多くカトリック教会の中に見る。新教諸教会に最も欠けているものは婦人のモデスティー(謙卑)である。マリヤ崇拝をあざける新教諸教会は、その婦徳においてははるかにローマ・カトリックの下にいる。

 聖アウグスティンの母教会にして、聖フランシスを出し、トマス・アクィナスを産み、ニューマン大僧正をひきつけしローマ・カトリック教会は、今日なお尊敬すべき教会である。余輩もまたもし今後教会に入るの必要を感ずるならば、喧々囂々(けんけんごうごう)としてこの世の勢力を得るに日もまた足らざる新教諸教会に入らずして、古き固き広きローマ・カトリック教会に入らんと欲する」

 内村はプロテスタント教会を攻撃しつつ、一時はカトリック教会に強く引かれるものを感じた。彼はここでカトリック教会の、プロテスタント教会からは隠されている姿を望見したのだろう。教会主義のカトリックから最も遠いと思われる無教会は、実は、その創始者、提唱者である内村の意識の中では紙一重の違いでしかなかったとは言えないだろうか。カトリックを真に理解したのはカトリック信者以上に、実は無教会の内村であったかも知れない。

(続く)

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