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2007年4月15日 (日)

現代の理解

「新しき中世」と言っても、おそらく、日本人には何かよく分かりません。西洋の時代区分をベースにしているからです。

16世紀の宗教改革は宗教改革と呼ばれていますが、実態は教会の新設であったために、宗教革命でした。実態に即して、「革命」という言葉をあえて使う人もいます。

しかし、宗教改革と一般には言われます。そこには、この新事態に対する憂慮に根ざす祈りが込められていたのかも知れません。教会は一つという信条があるのですから。

西洋近世を宗教改革からとすれば、その時の教会の対立関係の解消こそが、「新しき中世」の始まりでなければなりません。そのようなエポックが、歴史上、確かにありました。

20世紀が終わろうとしている1年前の時、1999年10月31日、ドイツのアウグスブルクで、ローマ・カトリック教会とルーテル教会世界連盟が「義認の教理についての共同宣言」に調印したのです。これで、16世紀の宗教改革以来の論争の核心的問題に解決が与えられたのです。この合意によって、西洋の16世紀の教会分裂は「改革」に近い理解が可能となったのではないでしょうか。

もちろん、このことは日本でも新聞報道はされました。しかし、残念ながら、日本には、その重要性を認識するコンテキストがありません。今、既にマスコミ世界では忘却の中に沈んでいます。しかし、これからのちの教会史関係の記述は変わっていくと思います。

この「共同宣言」を参照にしないでは書けないでしょうし、また過去の教会史の記述も修正されなければならないと思います。誤解もあるからです。この「共同宣言」から始まった、新しい時は着実に進展していくに違いありません。

この資料としては、『義認の教理に関する共同宣言』(ローマ・カトリック教会、ルーテル世界連盟、ルーテル/ローマ・カトリック共同委員会訳、教文館、2004年10月、1000円)があります。

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コメント

これからは、カトリックの人たちも「自分たちは信仰義認の立場」というかも知れません。いや、トップで決めたことなのですから、そう言わなければならないのでしょう。その時、どんなことが起きるのでしょうか。これまで、信仰義認というのは、プロテスタントの立場であって、カトリックの立場としては思われてきていませんでした。こんな本があります。

「救拯論的見地から見て、プロテスタント教会は福音主義であるのに対し、カトリック教会は自力救済主義または功績主義、律法主義であると言わなければならないだろう」(『キリスト教』岡田稔著、小峯書店、168頁)

これは、読み方によっては、カトリック教会はペラギウス主義とも読めるかと思いますが、そんな立場から、この「共同宣言」をどう解釈したらいいのか、と思います。セミ・ペラギウス主義、ペラギウス主義という批判されてきたカトリックの立場が、いや、そうではないのだということは、プロテスタント側の教会史の記述の修正を迫るものになるのではないかと思うのです。

投稿: | 2007年4月17日 (火) 11時27分

『義認の教理に関する共同宣言』本文の中に、こんな個所があります。

「13 義認についての聖書的使信の相対立する解釈と適用が、16世紀における西方教会の分裂の主要な原因であり、それがまた教理上の断罪へと導いていった。それゆえに、その分裂を克服するためには、義認に関する共通理解が根本的かつ不可欠である。……この『共同宣言』において義認の教理に関する基本的諸真理についての合意が明文化されることが可能になった。この合意の光のもとでは、16世紀に双方からなされた教理上の断罪は今日パートナーにはもはや妥当しない」

「教理上の断罪は今日パートナーにはもはや妥当しない」という点が大切と思います。

投稿: | 2007年4月21日 (土) 10時36分

例えば、石原謙氏の『基督教史』には、「カトリック主義が、其確立された信條と聖経典と儀礼及び秘蹟と功徳的行為とを有して全く律法的宗教の実質を備えているのは確かである」という記述があるが、「義認」の「共同宣言」後も、こういう書き方ができるのだろうか、と思う。

投稿: | 2007年4月21日 (土) 19時43分

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