« 内村鑑三試論④ | トップページ | 内村鑑三試論⑥ »

2007年4月10日 (火)

内村鑑三試論⑤

●武士の子

 しかし、内村は自他共に認める武士の子であった。節を曲げることはできなかった。そして、彼は問題の所在を明らかにしつつ、プロテスタントの中のプロテスタントとして、プロテスタント主義の徹底を叫びながら死んでいった。その経過を見よう。

 内村は一九一二年一月、長女ルツ子を失った。そして、その年の四月の「聖書之研究」には、「無教会かカトリックか、選択は二つに一つ」といった見解が記されている。内村51歳の時である。次のようである。

 「(前略)

 私はこの事についてなお一言言っておきます。すなわち、かつて本誌において唱えましたごとく、もし万一私が教会に入るべく余儀なくせられますならば、私はローマ天主教会に入ります。私の知りますところでは、これが地上唯一の矛盾のなき教会であります。もし地上の眼に見ゆる教会が信者各自に必要であるとならば、ローマ天主教会こそ最も完全にその必要に応ずるものであると思います。

(中略)

 無教会にあらざればローマ天主教会、わたしの選択はただこのニツをもって限られてあるのであります。しかして私は今は前者を選むのであります。後日(あと)の事は知りません。今日はなお私は無教会信者をもって満足するよりほかに善き道を発見するあたわざる者であります」

 彼はプロテスタントの子として地上の旅路を終えたのである。亡くなる二年前に、彼は、このような表明を残している。

 「今や新教諸教会の混乱堕落に堪えずして旧教に行く者、往々にしてありと聞く。そして私のごとき、常に前者に対し不平をいだく者は、あるいは彼らの後に隋(つ)いて旧(ふる)きカトリック教会に入りはせぬかと惴摩(しま)する者ありと聞く。しかしかかる憶測は全く不要である。私はいかなる事ありといえどもローマ天主教には行かない」
 (一九二八年四月「聖書之研究」)

 この中で、彼は自分の信仰をこうも言っている。

 「プロテスタント主義の子でありながらプロテスタント諸教会に反対するのは、その敵たるカトリック教会にあこがれるからではない。彼らがプロテスタント主義を離れてカトリック主義に後もどりしたからである。私が新教諸教会においてきらうものは、そのカトリック的精神である。自由の信仰を制度化したる、その矛盾せる行為である。(中略)私はルーテルやカルビンがカトリック教会に反対したその精神をもって今日のプロテスタント教会に反対する者である。私はプロテスタント教会がいまだ全く脱却し得ぬカトリック主義より全然脱却せんと欲する者である」

 そして、この文章は「今はカトリックに帰るべき時ではない。プロテスタント以上に進むべき時である」という言葉で終わっている。

 これは当然のなりゆきであった。彼は初めからピューリタン信仰の信奉者であった。しかも、文章をなりわいとしているのであれば、自分の主張を簡単に変えるわけにはいかない。これは戦争絶対反対論者であった彼が天皇への敬意を常に抱いていたといった矛盾とは質の異なるものだ。大いなる矛盾は偉人の特徴であるが、彼が偉人であり続けるためには許容できる矛盾と、許容できない矛盾とがある。できない矛盾をおかした結果は変節漢としての抹殺である。

(続く)

|

« 内村鑑三試論④ | トップページ | 内村鑑三試論⑥ »

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




« 内村鑑三試論④ | トップページ | 内村鑑三試論⑥ »