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2007年4月 6日 (金)

唯信

親鸞の 唯信あれど 信の果を
 この世で知るは なおあるのでは

親鸞は、念仏を唱えることが本当に涅槃に往生できることなのかどうかは、「存知せず」、知らない、と言います。

信仰義認は新生を生み出し、新生とは聖化の出発点です。それは、ある意味で体験です。知られるものです。

このへんに、キリスト教と浄土真宗の違いがあるのかな、と思います。

しかし、親鸞には「現生正定聚」(現生に仏となる身と正しく定められた者)という考え方があり、『教行信証』の信巻きでも、「常行大悲の益」といい、この世でも、仏の働きが自分に働いてくる、というのですから、何かの「体験」があると考えていたのかも知れません。このあたり、「存知せず」との調停が必要なのではないかな、と思います。

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