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2007年4月 9日 (月)

内村鑑三試論②

●無教会の魅力

 無教会は「信仰だけでよい」というのだから、この信仰を、一般的理解に従い、信頼と受け止めるなら、この点では確かに最も広いキリスト教と言えるであろう。

 しかし、それは先人の業績を反芻し、独自のものを築きあげていく努力を常に要求している。そこには創始者・内村ほどの熱烈さ、激情はなくとも、真面目な地味な活動が常に見られる。それは、個人の創造的努力を最も強く求めているキリスト教でもある。

 さて、無教会の魅力はどこから来るのであろうか。

 それは、内村が一人で戦ったからである。それゆえ、孤独な魂を、ことさらに愛される神は彼に近づき、彼はそこで、さまざまな真理をかぎわけたのであった。それらの真理は、彼の残した膨大な著作の中に、今も霊感をたたえて、読者を待っている。彼の文章には、不思議な一貫性があり、それは神と共にある個人の意識の一貫性である。ここに無教会の、いや内村の真の価値があるのである。

 内村の言葉は疲れた魂をいやし、天来の慰めを与えてくれる。「東京独立雑誌」の記事は、晩年のキェルケゴールの「瞬間」の言葉にも似て、一服の清涼剤のようでもあった。

 プロテスタンティズムにおける無教会の可能性について、内村の主張には筋が通っていると思われた。プロテスタントを引きつける力を、内村は常に持っている。偉大なる問題提起者であり、実験者であったのが内村であった。

 私は、これらすべてにおいて、内村が近代日本プロテスタント史上に残した大いなる、輝かしい業績を常に讃えることができる。

(続く)

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