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2007年4月10日 (火)

賀川豊彦試論①

●実践の人

 賀川豊彦は内村鑑三同様、日本のプロテスタント史上、忘れることのできない大人物であった。内村がどちらかと言えば書斎と講壇の人であったのに対して、賀川は実践の人であった。

 賀川は堅い改革派信仰を持った米人宣教師に見出され、初めは改革派教会の信仰の中で育てられていった。しかし、信条的堅さよりも、心情的深さに傾く賀川は終生、神学者カルビンには余り関心がなかったようだ。彼が「衣鉢を継ぐ」として常に念頭に置いていたのは、ジュン・ウェスレーとアシジの聖フランシスコであった。彼が、その創設にあずかり、常に、その団体の第一の指導者と目されていた「イエスの友の会」は、フランシスコ会の第三会(信徒会)をモデルにしていた。

 賀川はカトリック神学に興味を持っていたとは思われない。内村は本質を見抜く力に秀でていたために、プロテスタント信仰を突き詰め、その中でカトリックに対して反発と同時に、同情と共鳴を示すこともあった。

 教会問題に関する内心の揺れに対して、内村は、生涯の終わり近く、プロテスタント主義の徹底を叫ぶことで決着をつけたのだが、いずれにしても内村においてはカトリックは生涯、頭から離れず、悩まされ続けたのではないだろうか。しかし、賀川には、このようなカトリックとの対決とか、受容といったことは、生涯、明確に意識されていなかったであろう。

 彼はプロテスタントの運命にひきずられ、時にプロテスタントの枠を超えて。新しい時代、新しい世界を待ち望み、そのために奮闘した。それらは巨大な実践となって現れていったが、その動機が、どのようにプロテスタント信仰と結びつくのか理解しにくい面があって、周囲の誤解を招いたこともあった。

 牧師としての賀川は、彼の出身教会である日本基督教会の平均的な牧師像からは余りにもかけ離れていたために、一部の同僚牧師から軽んじられ、批判もされた。しかし、そこにはプロテスタンティズムの歴史的制約をも超える、彼の先見性があったのではないだろうか。この新世界の預言者としての賀川の中にカトリシズムが潜んでいたのかも知れない。彼を大きく羽ばたかせていったのは、この隠されたカトリシズムが彼の中で力強く働いていたためであったのかも知れない。そんなことを言う人を、私は他に知らないのだけれど。

(続く)

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