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2007年4月10日 (火)

内村鑑三試論③

●斜めの視点

 無教会という道は、誰にでも開かれている一番広い道である。「この道は難しい道ではなく、易しい道である、なぜなら信仰だけでよいのだから、すべての人に開かれたもっとも広い、易しい道である」と無教会の人々は言うかも知れない。教義、教えとしては、確かにそうである。

 しかし、個人の信仰を守るもの、成長させるものを考えた時、防衛的要素を考えるのも許されるのではないかとも、私は思う。信仰の「見える」部分の客観性を意味している。この防衛的措置が教理的問題の正邪判定に関係していると見られる時には、それにふさわしい判断が求められるであろうけれど。

 もっとも、内村のような、強烈な個性と並はずれた表現力を恵まれていれば、話は別であり、かえって、無教会の方が勝手がよいかも知れない。しかし、彼の人生は平坦なものではなかった。そして、人は誰も内村のような<偉大なる矛盾の人>となるように召されてはいない。彼の従者は、先生の大いなる矛盾に振り回されるであろう。人間は個人性と神だけで生きているのではなく、人間社会を形成して、その中で生きているのである。その時、内村の掲げた「神と我」のみの真理だけでは、人間社会の中で生きていくのに困難が生じてこないだろうか。

 内村に対して、いろいろな人がいろいろなことを言ってきたし、それは今に至るまで続いている。肯定と否定、さまざまである。もちろん、肯定要素が強い。でなければ、これほど人々の関心を集めてきたことの説明がつかない。私も、一つの試論をしてみたい。肯定と否定。

 否定? 一体、彼の何を否定するのか。それは、無教会運動の創始者としての内村の思い、プロテスタント主義の徹底の提唱の裏に、あるいは秘められていたかも知れないものである。あるいは、と言うのだから、もちろん、秘められてもいなかったかも知れない。

 無教会の完全肯定でも、完全否定でもない、斜めの視点から、創始者の言葉を見ていくとどうなるだろうか。

(続く)

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