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2007年4月20日 (金)

神秘主義

弁証法神学者は神秘主義を批判していた。なぜ、と思った。シュバイツァーには、神神秘主義とキリスト神秘主義という言葉があった。パウロはキリスト神秘主義だという。聖霊体験もまた、キリスト神秘主義ではないのか、と私は思う。であれば、神秘主義はキリスト教信仰と対立してはいない。

弁証法神学者のブルンナーは、神秘主義を批判している。それには、こんな「定義」がされているのである。

「神秘主義を特徴づける「純粋内面性」こそは、かしこにおいて事象が問題とならず、したがって決断も問題とならず、ただ既に存在するものの認識が問題とされると云うことの標識である。神秘主義者たちは、かれ自身の魂の根柢に神的なものを発見する。それゆえかれは神的なものにたいして決断する必要はないし、またかれがそれについて多く語るところの「離別」も、外見上の離別であり、自我の神的核心を覆う被いを解くことにすぎない。それゆう神秘主義もまた、主宰神や創造神と関わるのではなく、世界にたいして永遠の相関関係に立つ隠れたる世界根拠にかかわるのもである。神秘主義は本質的に時間の否定であり、時間と永遠に、「立ちどまる今(nunc stans)としての実存に揚棄することであり、-それゆえ歴史の非本質化であり、決断の回避である。それは結局において一種の審美的現象である」
(『人間性の限界』ブルンナー著、有賀鉄太郎訳、アテネ新書51、92-93頁)

このような定義における神秘主義は、確かにキリスト教信仰に対立しているけれども。

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