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2007年4月27日 (金)

第二の宗教改革

「第二の宗教改革」というのは、内村鑑三の言葉である。内村は、こう言っている。

「ルーテルの行いし以上の改革を要する。信仰の上に愛を加うる改革を要する。ガラテヤ書ならで、ヨハネ書に由する改革を要するのである。もちろん信仰抜きの改革ではない、信仰を経過して然る後に愛に到達する改革である。ルーテルの改革を改革する改革である。われらはルーテル以上の改革者たるべきである。…」

ルターを越える、同じような改革の要求は改革派にもあると思う。しかし、その時、ルターが批判したカトリック教会の中にも、そのような発想は、既に取り上げられている。

カトリック教会も「信仰義認」というと、あのルターの改革は何であったか、ということになるが、トマス・アクィナスの言うところは、ルターの根本主張と一致しているのである。

今は、余り使わなくなったが、以前、「成聖の恩寵」と「助力の恩寵」という言葉があった。信仰義認によって受ける恩寵は成聖の恩寵である。しかし、その後、聖化の段階がある。その聖化の階段を上っていく。その時に働くのが「助力の恩寵」なのだという。ということは、この恩寵は先行的恩寵や、一般恩寵とも異なるものかも知れない。

この点の詳しい解説は、『トマス・アクイナス』(印具徹著、日本基督教団出版部)の第三部の「第一章功徳論」(120-140頁)に書かれている。

そこには、ルターは「いわゆる「善行によって人は神の義に到達しうる」という当時のカトリック教会の教えと戦ったのである」(121頁)と記されている。これは、あるいは行為義認とか言われるのだが、トマスは、そんなことは言っていないのである。ルターと同じことを言っているのである。

ただ、「業による成聖」という言葉も当時のカトリック教会の考え方、ルターの批判した思想として出ている。

ところで、この「業による成聖」は何を意味するのだろうか。ルターの批判は「業による成義」なのではないだろうか。成聖は成義の基礎の上に成り立つものであるが、その成聖には「業」の要素があるのではないだろうか。トマスは功徳という。

そして、功徳論において、トマスは「功徳の最も深い本性が結局「愛」(caritas)であることを指摘しないではいられなかった」(131頁)という。

そこにおいて、内村の「第二の宗教改革」の目指すものと、トマスの功徳論には何か共鳴しているものがあると、私は感じている。

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コメント

「助力の恩寵」に関して、こうも書かれている。

「人間が罪から立ち上がるためには、まず「助力の恩寵」 ( gratia actualis ) が、次に「成聖の恩寵」 ( gratia sanctificans ) が与えられる必要があることを、トマスは主張するのである」
( 『トマス・アクイナス』(印具徹著、日本基督教団出版部、105頁)

これは先行的恩寵のことではないだろうか。ということは、「助力の恩寵」とは、魂を新生に導き、また聖化の歩みの中でも働く恩寵ということになるのかも知れない。

投稿: | 2007年5月 4日 (金) 20時24分

人と神との協働に関して、それは「助力の恩寵」との「協調」なのだという。絶対他力というのは、あるいは信仰義認というのは、「成聖の恩寵」の受領に関して言われることなのだろう。しかし、その条件である信仰というのは、自由意志と「助力の恩寵」との協調、また聖化の段階に関しても、自由意志と「助力の恩寵」との協調が必要だという ( 『トマス・アクイナス』(印具徹著、日本基督教団出版部、111頁)。

プロテスタントの信仰者が、この本を読めば、カトリック信仰が、ルターの批判にはあたらないことを納得するのではないだろうか。そこでは、行為義認も、セミ・ペラギウス主義も退けられていると思う。救いとは、「成聖の恩寵」を受け取ることを意味するのだが、それは自由意志と「助力の恩寵」との協調で実現する。「成聖の恩寵」は全くの賜物、贈り物、その条件としての信仰は、自由意志と「助力の恩寵」との協調と考えてもいい。その時、自由意志の功績を言う人は、「成聖の恩寵」が贈り物ではないと言うのに等しい。しかし、それは違う。

投稿: | 2007年5月 4日 (金) 21時22分

聖書にはマリアという重要人物が三人出てくる。イエスの母マリア、マグダラのマリア、そしてマルタの姉妹マリアである。マルタの姉妹マリアは、あるいは「成聖の恩寵」に対応するための人のあり方、マルタは、「助力の恩寵」に対応する人のあり方を示しているようにも思う。そして、イエスは、傾聴(完全受動、絶対他力)しているマリアを優先された。それにも意味があるように思う。

投稿: | 2007年5月 5日 (土) 06時19分

たとえば、マリアは教会、マルタは国家を表しているかも知れない。セミ・ペラギウス主義というのはマリアとマルタの混合形態かも知れない。その分離と正常な関係の回復が大切と思う。マルタがマリアを吸収するとペラギウス主義が生まれる。中世末期は、マルタが強くなって、マリアの独自性と優先性が見失われていたのだろう。そのため、ルターはマリア優先を叫んで、マルタを「無視」したのかも知れない。その「無視」が、カトリック教会によって拒否されたのかも知れない。マリアは「神の似姿」、マルタは「神の像」に対応しているとすれば、二人は人間の要素を示しているとも考えられる。

投稿: | 2007年5月 5日 (土) 07時40分

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