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2007年4月 2日 (月)

ルターの敵

宗教改革者ルターの敵は、誰だったのだろうか。中世のローマ・カトリック教会だということになっている。

しかし、彼の信仰思想を考察すれば、それはセミ・ペラギウス主義だったのではないだろうか。セミ・ペラギウス主義は、トマスがアウグスティヌスの学びの中で、最初は奉じていたが、軌道修正して放棄したのであるから、問題の多い考え方とも言える。しかし、普通の人には、逆に理解しやすいかも知れない。

「人事を尽くして天命を待つ」という言葉がある。その精神が、ある意味では、このセミ・ペラギウス主義である。指導者としては、「人事を尽くせ」と言いたいだろう。その時、「天命を待つ」の中で、天からの報いを当然の要求という権利意識が働く時、そこに生まれるのが、このセミ・ペラギウス主義である。人事を尽くしても、それは神の救いを請求する権利とはならない。救いは、それとは無関係だ。それがルターの発見した福音だという。

こんなふうに言われている。

「カトリック教会は、当時においても、今日と同じく、人間の救済が自己自身の善行によってのみかちとられるものとは教えていない。そのように説いたペラギウスは、すでに五世紀初頭いらい、異端とされてきたのである。エルフルト大学でルターが影響をうけたオッカム主義によれば、人間は、まず、みずからなしうることをなさねばならない。むろん、それによって、まったき義を充たすというわけではない。それは、神の恩寵の賜物にほかならないから。しかし、人間は自己の努力によって、神が人間に恩寵をおくり人間を受け入れる、前提をつくり出すことができる、というのである。
 しかし、救いの前提条件としてのこの自己努力の要求は、たちまち人間の業績主義に転化する。困難な律法的努力の達成は、すでにそれ自体、一個の《業績》となせざるをえないから」
(『宗教改革の精神』宮田光雄著、創文社、16頁)

要するに、最終的原理としては、自力か他力かの二つなのである。その折衷としてのセミ・ペラギウス主義には、他力のようでありながら、自力的要素を紛れこませている可能性を否定できないのである。それがルターの批判の対象になったというのが真相なのだろう。

オッカムの立場は、教会の一つの立場であり、全部ではない。だから、ルターの論争が、きちんと処理されていれば、宗教改革ではなくて、真の教会改革になったのではないかと思う。

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コメント

皮肉なことではあるが、ルターにおいて、セミ・ペラギウス主義は、否定・超克されることにおいて、その命題の真実が達成されたという一面もあったと言い得るかも知れない。

投稿: | 2007年4月 2日 (月) 23時29分

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