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2007年4月10日 (火)

内村鑑三試論⑧

●教会とは何か

 教会論に関して言えば、無教会主義にはプラトン的「霊・肉二元論の中での霊の重視」といった理解に近いものを見ることはたやすい。

 アリストテレスは師プラトンを、イデア説という、その中心思想において批判し、従ってアリストテレス思想の延長上にある聖トマスには肉体軽視といった思想は影をひそめている。この聖トマスの「霊魂と肉体に関する見解」を下敷きにして見るならば、可見的教会の重要性が明瞭になる。人間は霊魂だけの存在ではなく、霊魂と肉体の結合した存在である。この結合を、人間にとって本質的なことと見るか、非本質的なことと見るかで両者は挾を分かつ。そして、霊魂と肉体との結合が人間にとって本質的なことと見る見方が、カトリシズムの主流となった。

 天使的存在に憧れる人間は、物質(肉体)軽視に陥りやすいが、人間は天使ではないということを忘れてはならない。人間に、人間としての、人間にふさわしい、謙遜な認識の道を示したトマスが「天使的博士」と呼ばれたことに、ある逆説を感じる。認識の質においては、トマスよりもアウグスチヌスの方が高く、アウグスチヌスの方が「天使的認識」に近いのであるが、カトリック思想の中ではアウグスチヌスよりもトマスの方が重要な位置を占めてきた。

 このように、単にプロテスタンティズムの歴史だけではなく、キリスト教思想史全体の論争と、そのゆくえとを見ていく時に、われわれは無教会主義に対して別な見方ができるようになる。それは可見的教会の重要性に対する洞察である。このような光の中で、もう一度聖書を読む時、以前は不明であった聖句が新たな重みをもって、われわれに迫ってくるのを感じとることができる。

 キリストがペトロに天国の鍵を渡したということは何を意味するのか。この意味するものは、キリストと教会との一種の連続性である。この連続性の中で教会の可見性は、その不可見性同様に重要なものとなる。「教会はキリストの体、受肉の延長である」といった見方は、このようなコンテキストの中で見られなければならない。

 しかし、日本に「無教会」というキリスト教の一つの運動が起きたことは意義深いものがあると思う。16世紀の西方教会の失敗に対する問題提起としての意味づけは、教会史が新しい時代を迎えるまでなくならないであろう。

(終わり)

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