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2007年4月 8日 (日)

エラスムス再考

ルターと思想的に対立したエラスムスは、人間について、どう考えていたのだろうか。講談社学術文庫『宗教改革の精神』(金子晴勇著)が、副題として「ルターとエラスムスの思想対決」とあるように参考になると思う。

エラスムスの人間観を要約して、こう書かれている。

「(1)神は人間を「神の像」もしくは「神の似姿」に造ったので、最初の人アダムは無垢のとき、理性も健全で意志も自由であり、なんらの自然本性の毀損もなかった。しかし、善にそむいて悪へと迷いでることができるほど自由であった。
(2)ところが罪が入ってきてからは理性の光は暗くなり、意志は悪化し、自由を失って自力で善に向かいえず、ひとたび同意した罪に仕えねばならなくなった。このようにして意志が悪化したため、弱さ・悪徳・冒涜が多くみられるが、人間は洗礼の恩恵によって「再生した者」、「新しく創られた者」となっている。
(3)アダムの原罪により自由意志の力は弱くかつ小さくなっているが、これを取り除くのは行きすぎであり、人間が絶望したり、また反対に安心したりすることがないように、人間の責任を示す自由意志が認められなければならない。……人間は恩恵と意志との共働によって善いわざを実現しうるのである」(137-138頁)

さて、これをどう考えたらいいのかである。

(1)については、「神の像」と「神の似姿」という言葉が使われているが、同じ意味に使われているようである。しかし、ジルソンの本では、区別がされていた。原罪によって、「神の似姿」は失われたが、「神の像」は失われていない、というものだった。ジルソンの説明の方が、私には分かりやすかった。「神の像」とは人間の定義に関わるものであり、「神の似姿」とは、神との交わりを指していると考えた。

次に、(2)については、「人間は洗礼の恩恵によって「再生した者」、「新しく創られた者」となっている」とある。その場合の洗礼は水の洗礼であろうが、それが「指し示す」働きを超えて、「再生」を直接に生み出すのかどうか、そこにはもう少し考えなければならない余地があろう。プロテスタントがカトリック批判をする時、そのへんが考慮されているからである。人効論と事効論を比較した時、教会としては事効論に立つのであろうが、それは時間的に洗礼の時が「再生」の時という意味ではないと思う。もし、そうであれば、ルターの信仰そのものが分からなくなる。彼は幼児洗礼であったろう。その時に「再生」したことになり、後年、信仰を発見したことが何であったか分からなくなる。ということは、信仰義認の発見の時が、彼の「再生」、また「新しく創られた」時と考えるからである。また、パウロの「再生」は、水の洗礼によるものではなかったという歴史的事実もある。これらを、きちんと説明しなければならないのである。

さて、(3)において、「共働」が言われている。それは、どういう意味か。

「恩恵と意志との共働の仕方をエラスムスは説明して、恩恵が主原因であり、意志が二次的原因をなし、主原因が自己充足的であるのに対し、二次的原因は主原因なしには何ごともなしえないという具合に関係しているという」(138頁)

これは信仰義認そのものではないのだろうか。ペラギウス主義でもなく、セミ・ペラギウス主義でもなく、信仰義認の立場と考えていいのではないだろうか。なぜなら、恩恵が主であり、意志が二次的といっており、このように原因を段階づけるのであれば、信仰義認の立場と矛盾はないように、私には思えるのである。

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コメント

エラスムスはルターとの対比で否定的に受け取られるだろう。しかし、こんな指摘もある。

「最近でもエラスムスにおける異教的で非福音的もしくは道徳主義的な要素を強調する解釈がある。だが他方では、キリスト教的で神中心主義的傾向を強調する解釈も行われている。この対立している解釈はどちらが正当であるかは容易に判断できない」(『宗教改革の精神』金子晴勇著、講談社学術文庫、4頁)

後者がありうるのだということである。エラスムスを、そのように解釈するということは、宗教改革初期の論争はまだ終わっていないということを意味する。

投稿: | 2007年4月 8日 (日) 22時09分

『宗教改革の精神』には、こんな表現がある。

「ルターも信仰にもとづく主体性を重んじるが、この人格の主体性はたえず悔い改めによって新生しなければならないほど罪に染まっている」(5-6頁)

言おうといういることは分かるのだけれど、ここに新生という言葉を使うのが適当なのだろうか。新生は洗礼を対応する言葉であれば、繰り返し、悔い改めによって洗礼を受け続けなければならない、という意味になるのである。これはおかしいと思う。

投稿: | 2007年4月 8日 (日) 23時03分

講談社学術文庫『宗教改革の精神』(金子晴勇著)の著者は、エラスムスの立場は「キリスト教的ヒューマニズム」という。その詳しい説明は、163頁の「神中心的ヒューマニズムの真義」に書かれている。

著者は、エラスムスのヒューマニズムが「神中心的ヒューマニズムと一般にいわれている」という。その例として、ウィレーの『キリスト教と現代』(武藤・川田訳、創文社)を挙げている。

著者は、「神中心的といわれているヒューマニズムはやがて人間中心的ヒューマニズムとして十八世紀啓蒙時代の思想を生んでゆく」といい、このヒューマニズムの問題性を指摘する。

たとえば、実存主義の場合、キェルケゴールのものとサルトルのものとは違う。キェルケゴールはサルトルの主張の原因として、責任があるのだろうか。ヒューマニズムが神中心から人間中心に転換する時、前者は後者に責任を持たなければならないのだろうか。そんな問題を感じる。

「したがって神中心のヒューマニズムは、神が人間のうちに自己自身を啓示した土台に立ったヒューマニズムでなければならない。つまりルター的にいうと「神の恩恵の働きに共働する人間」でなければならない。エラスムス的に「人間に共働する神」ではなくて、逆に「神に共働する人間」へと転換がおこらなければならない」(165頁)という。

神と人間との共働の場は聖化の場であれば、そこでは、「人間に共働する神」も「神に共働する人間」も区別はないのではないだろうか。その区別をあえて言う場合とは、エラスムスの場合には、新生という土台がない、古い人間が、その働きに神の恩恵を従わせようとしているということを意味するのだろう。しかし、エラスムスとしては、洗礼を受けた新生者(キリスト者)における神との交わりを考えているのではないだろうか。

投稿: | 2007年4月 8日 (日) 23時30分

エラスムスではなくてルター、ブルンナーではなくてバルト、そんな先入観で見ていました。しかし、もう一度、検証が必要なのではないかと、今、思っています。

原罪で失われたものは何か、失われないものは何か。エラスムスもブルンナーも、ルターやバルトの言い分を理解していたのではないでしょうか。

原罪のあとでも、人は人である。原罪のあと、人は理性的動物でなくなったとしたら、宣教そのものが不能になってしまうでしょう。非常にプリミティブな問いではあります。そんな疑問をブルンナーもバルトに対して持ったような読み方をしていました。

カルビニズムの5綱領の一つに「全的堕落」があります。神の似姿が完全に失われたと理解しています。しかし、それは神の像(理性)の消失ではない。「全的堕落」が、神の像の消失まで語っているとしたら、経験的事実の説明が出来なくなります。

ペラギウス論争というものは、歴史上、何度も形を変えて、繰り返されてきたと思います。

投稿: | 2007年4月 9日 (月) 12時53分

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『エラスムス』特集ページ
http://www.fukkan.com/fk/GroupList?gno=4758

投稿: 大絶画 | 2007年5月23日 (水) 12時49分

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