« ヒューマニズム | トップページ | 内村鑑三試論① »

2007年4月 9日 (月)

「神の像」論争

イマゴ・デイ(神の像)に関して、バルトとブルンナーとの間で論争があったのは有名な話です。

1934年、ブルンナーがバルトに対して、『自然と恩寵』という書を書いて、バルトは人間が罪に堕落した結果、イマゴ・デイを失ってしまったと言っているが、ブルンナーは、イマゴ・デイは残っていて、自然神学の可能性を主張したということになっています。

バルトはそれに対して、『ちがう!』という小冊子を書いて応じています。これは普通、ブルンナーに対して反対と受け取られていたようです。しかし、本当は、ブルンナーのバルト理解が違うという意味もあったようです。

『ちがう!』の中では、「人間は堕罪の結果、イマゴ・デイを失ったしまったとバルトが言っている」というのは、ブルンナーの決め込みであって、バルトは、そんなことは言っていない、というのです。世界の大学者が、こんな論争をしているとは、私としては、「シンジラレナーイ!」といった気分です。

しかし、これはブルンナーの責任ばかりではないと思います。菅円吉氏も『理性と啓示』(昭和28年)の中で、「バルトはimago Deiは、人間から全く失われてしまっていると主張する」と書いているのですから。菅氏は、その訂正のためもあり、「バルトとブルンナーの『神の像』論争のゆくえ」という論文を書いています。(『カール・バルト研究』教文館)。

「バルトに従えば、旧約聖書が人間の神に似た姿について直接に語る句からしては、人間は堕罪と共に神の像を部分的にも全体的にも、あるいは形式的にも内容的にも失ったという結論は出てこない。イマゴ・デイは堕罪によって失われてしまったという宗教改革者達の主張は、宗教改革者達がイマゴ・デイを人間が所有していたが、しかし罪を犯したため、その罰として失ってしまったところの『完全の状態』と解したということを背景とすれば、理解できることであり、また必然的にそう考えざるを得ないが、このようにイマゴ・デイを理解することは創世記1章の中に何の根拠も持っていない」(176-177頁)

|

« ヒューマニズム | トップページ | 内村鑑三試論① »

コメント

この論争に関しては、『キリスト教組織神学事典』(教文館)の中で、「神の像」の項目においても触れられています。
そこには、こう記述されています。

「バルトはこの書の中で形式的にも実質的にも<神の像>は、堕罪によって人間からまったく失なわれており、堕罪後のアダムは<自分にかたどり、自分のかたちのような男の子を生み、その名をセツと名づけた>(創5・1-3)のであって、罪人アダムのかたちが継承されていると見る。そして<人間が人間であって猫でない>というようなことは<とるにたりないことだ>とした」

人間が人間であって猫でないこと、そのことを指して、「神の像」が残ったと、私は理解しています。従って、堕罪後、まったく「神の像」が失われたとは考えていません。もちろん、「神の似姿」は失われたと考えるのですが。そして、重大なことは、この「神の似姿」の回復であることは、もちろんのことなのですが。

しかし、バルトは、その後、『教会教義学』の創造論で、「堕罪のおいても人間の被造性が失なわれないことを容認し、ブルンナーの言わんとした弁証法的緊張関係を理解している」(『キリスト教組織神学事典』)とも言われています。

投稿: | 2007年4月19日 (木) 17時15分

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




« ヒューマニズム | トップページ | 内村鑑三試論① »