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2007年5月31日 (木)

踏破

エベレスト 最高齢で 踏破せり
 その眺望の おすそ分けなし

世界の最高峰エベレストを踏破した人たちの最高齢者が日本人になったという。どんな眺めだったのだろう。

思想でも山がある。とてつもない高い山が三つある。アリストテレスとトマス・アキィナスとヘーゲルである。信仰を持たない人はアリストテレス、カトリックはトマス、プロテスタントはヘーゲルを目指したらいいのではないかと思う。

実存思想の祖、キェルケゴールが批判したヘーゲルへの関心は起きなかったが、その山に登る人がいてもいい。ヘーゲルも信仰の学を目指していたのだから。

エベレストを目指す人は、その眺望を独り占めして下山するのだが、思想の山は、そうはいかない。ここでは、眺望のおすそ分けをしないでは、登ることができないのである。少し登って見た眺望でも、おすそ分けしていけば、登る力が与えられるのだ。

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理性の二義性

「一見したところ、ルッターとヘーゲルの対立ほど大きな対立はない。ルッターは理性を悪魔的な能力として呪ったのに反して、ヘーゲルは理性を神化した。
 けれども、ルッターが語っている理性は、ヘーゲルが肯定した理性と同じものではなかった。ルッターが断罪した理性は人間的な理性であるに反して、19世紀初頭のヘーゲル、フィヒテ、およびすべての理想主義者が栄光を与えた理性は神的理性である。ヘーゲルが眼前にいだいていた理性は--そしてこれがここでわれらが最も多いなる関心をもつ点であるが--ルッターが理解していた理性と符合しないで、ルッターが恩恵のもとで理解したものに符合する。ヘーゲルによれば、認識をなすのは、人間的な理性ではなく、神的な理性である。なんとなれば、認識の作用は宗教的な作用であって、個々人の作用ではなく、普遍的な精神の作用である」
(『ベルジャーエフ著作集6 神と人間の実存的弁証法』)

要するに、理性というのは一義的ではないということである。

信仰のない人たちがドイツ観念論を学ぶ時、「恩恵のもとで理解した」理性といっても、よく分からないのではないだろうか。なぜなら、それらはキリスト教哲学なのだから。

理性は、恩恵のない領域から恩恵を受けた領域に移行して、そこで哲学の道具となる。それがヘーゲル哲学だというのである。恩恵のもとにおける生の反省は、やはり必要ではないだろうか。

もちろん、恩恵のもとにない理性に対しては、恩恵のもとにあれ、というルター的促しがなくなってはいけないのだけれど。

理性という言葉にルターは否定的な発言をしているが、それは恩恵の必要を強調するためであった。しかし、それは恩恵を受けた人間が、理性的活動をしてはいけない、という意味ではないだろうと思う。ここで、ルターを超えることも必要だとわかる。

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2007年5月30日 (水)

死の瞬間

『文藝春秋』2007季刊夏号で、渡部昇一・上智大学名誉教授が「日本人である私と宗教」という題で故石原謙氏(元東京女子大学学長)と中川秀恭氏(元国際基督教大学学長)について書いておられる。

石原氏の「悪魔が出てきて毎晩苦しめられている」という言葉を聞いて、弟子の中川氏は「先生、われわれは信仰を抱いて、深淵に飛び込む決心が必要なのではないでしょうか」と慰め、この言葉で、石原氏は安らかな死を迎えたという。

渡部氏の文章は、中川氏の最近の言葉を紹介している。

「これは禅の影響と思いますが、私はキリスト教徒ですが、死後は天国に行って神様のところで平和の時を過ごすとは考えていません。亡くなれば虚無に帰す。そのように考えています」(『到知』2007年2月号、13頁)

『なぜキリスト教か』(古屋安雄編、創文社、1993年)の中川論文「深き淵より」では、虚無の深淵、深い沈黙の中から神に呼びかける時、「われわれの耳は、沈黙のしじまの中から応える神の声を、果たして聞くことができるであろうか」と問いかけておられるという(581頁)。

「亡くなれば虚無」。どういう意味なのだろうか。「死後は天国に行って神様のところで平和の時を過ごす」とは、普通のキリスト者の考えていることなのではないだろうか。中川氏は何を考えておられるのだろうか。

ただ、死というものが人間にとっては絶対の孤独を意味すること、そして、それは深淵に落ち込む経験かも知れないということは、なんとなく分かるような気もする。その落ち込んでいく危機の中から、神に、イエスに信仰の叫びを上げればいい。それは、きっと聞かれるだろう。しかし、それは死の瞬間ではなくて、もっと前の、元気な時の、回心の経験なのではないだろうか。あるいは、そういう経験は稀有のものなので、肉体の死の瞬間でなければ与えられないのだろうか。

絶対の孤独といっても、神がともにいてくれる。それは聖霊の感覚なのだろうが、これがあれば死の恐怖はないと思う。

ウェスレーは「神ともにいますことが最もよいこと」という言葉を残した。最高の遺言である。人とのコミュニケーションが完全に絶えて、自分ひとりになっても、神がおられる実感の中で、人は祝福された死の瞬間を迎えられると思っている。「わたしにとっては、生きることはキリストであり、死ぬことは益である」(ピリピ1・21)。

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魂の落ち着き

「ペスタロッチの教育思想の根本は魂の奥底の落つきと云うものがなければ真実に一人一人の能力と云うものを延ばすことができないという考であります。魂の根本の静けさがあれば人間は各自その天賦の能力なり資質なりを延ばして行くことができる」(『ペスタロッチ隠者の夕暮』福島政雄著)

ゆとり教育というものは、この「魂の落ち着き」の重要性に気づいたのだと思う。教育の前提に何かが必要だと気づいたのだと思う。しかし、見い出せなかったのだ。そして、学力の低下に驚いて、元に戻ろうとしている。

あの大学紛争の時、学ぶ余裕はなかった。教育以前の関心事が学生の心を占めた。

「魂の落ち着き」は教育の可能性の中にはないのである。しかし、そもそも、これがなければ教育は始まらない。教育再生は、この点を考えねばならない。

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再臨主

毎日新聞朝刊(07年5月30日)に、統一教会の名前を見た。「統一教会に賠償命令 東京地裁『恐怖あおり献金。違法』」という見出しがあった。

大学紛争が一応、終わってからも、統一教会は活発に大学で活動していた。私も早稲田大学で、その話を聞いた。Oさんが講師であった。

「イエスの活動は失敗だった」という。なぜか。「ユダヤ人がイエスを受け入れなかったから」。私は「かちん」ときた。「失敗とはなんだ」。

そして、今。

「再臨主が来ている。だから教会は、その人を受け入れたら、約束が成就するのだ」。その時、再臨主と、はっきりは言わなかった。しかし、その後、統一教会関係の話の中に、この言葉が使われていた。

今の時代、教会は、イエス時代のユダヤ人の立場にある。だから、教会が「再臨主」を受け入れれば、新しい時代がやってくるのだ。統一教会が、既成の教会に執拗にアプローチするのは、そのためのように思った。実際、その後、教会へのアプローチが別の教会の名前を通して行われたこともあった。しかし、かかわり始めた機関から「排除」された。

再臨は既成、歴史的教会の教義であり、それを否定することはできない。日本では再臨運動というものがあった。しかし、どういうものか、再臨論では意見は分かれている。再臨前千年王国、再臨後千年王国、無千年王国と、黙示録の記述をめぐって、解釈が一つではない。統一教会もまた、別の、新手の解釈を提供しているのかも知れない。

統一教会の経典ともいうべきものに、『原理講論』というものがあった。読みようによっては、興味深い内容でもある。しかし、大学紛争の中で、体制側の突撃隊のようなイメージもあり、一部の体制側の管理者的立場の人たちからは共感を得たかも知れないが、全体の雰囲気の中では、危険視され、排斥されてきたように思われる。

そんな中で、N神父が、その教義を詳細に調べて、カトリック教会としての見解をまとめた。それをもとにした教会の公の声明は「統一教会はエキュメニズムの対象ではない」といった簡単なものであった。しかし、その意味するところは重大であった。なぜなら、「統一教会をキリスト教と認めない」という意味が込められていたからである。統一教会の若者たちにショックが走ったと思う。正式名称には基督教の文字があるからである。しかし、残念ながら、その時の神父の論文は雑誌には公表されていたが、公に、また真面目に、多くの人たちによって議論されなかったと思う。昭和60年秋のことであった。

統一教会に関連して裁判が続いた。しかし、それらは、この教会の本質を問うというよりも、その本質の結果、現れてきた社会的影響が問われたものであった。本質は教義である。そして、もちろん、裁判では教義の是非は問われていない。

統一教会の問題提起は、今も続いているのではないだろうか。すなわち、再臨とは何か。

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還相と往相

還相と往相とは仏教の言葉ですが、同じような発想がソロウィヨフの『神人論』の中にもあります。

「観念を化身せんとする神的本原の進動は之れを化身せしむる為の材料を支配するする世界魂と結合せんとするの進動に他ならず、又物質的要素の中に統一を実現せんとする世界魂の進動は此の統一を施す為の絶対的形式を含有する神的本原への進動に帰着するわけである」

観念はどこにあるのか。プラトンへの疑問がアリストテレスの中にあって、この点が少し違いました。トマスは観念を神の世界に移しました。これで、ギリシャ哲学の問いに、一応の解決を与えたのだと思います。

「観念を化身せんとする神的本原の進動」というのが、人間の側での創造活動なのでしょう。観念は神から出て、神に帰る。その運動に参加する、それが人間の仕事でしょうか。しかし、その観念は、自然的観念ではなくて、実存的観念でなければならないのだと思います。

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2007年5月29日 (火)

心の時代を生きる

『文藝春秋』季刊夏号のテーマは「心の時代を生きる 日本人と宗教」です。ラジオ深夜便でおなじみの人たちが多く登場しています。いい企画だと思います。

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死想

死を想え 中世は言う 今もなお
 無常の悟り 超越を問う

無常の悟りというのは超越なのだろうか。仏教とキリスト教との対話の中では、どうなのだろうか。

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創造

ベルジャーエフは「創造活動」ということを繰り返し語っていた。創造というと「無からの創造」として、これは神にしかあてはまらないと思うかも知れない。その限りでは、そうであろう。その定義では、人には創造活動は出来ない。しかし、別の意味で使う人もいる。

『トマス・アクィナス』(山田晶責任編集、中央公論社)は「人間の『創造』」という項目で語っている。この創造は「創造活動」のことである。

「かかる「神の似像」としての人間が、神の似像であるかぎりにおいて為すことがらは、或る意味において、人間に為しうる「創造」であるということができるであろう。何故ならば、人間が自由なる行為によって世界のなかに造り出すものは、ただかかる自由の行為によってのみ世界のなかに存在するのであって、単なる自然のはたらきによっては、けっして生ぜしめられることのないものだからである」(62頁)という。

要するに自由意志が前提にされていて、その自由意志によって生み出されるものが、ここでは「創造」と言われている。しかし、そこで、では自由意志による作品はすべて創造と言われるのか、と問われるが、そうではないという。「自由にもとづく秀れた行為が創造の名に値する」(62頁)という。では、その「秀れた」というのは、どういう意味か。「人間的行為のなかで、最も秀れた行為とは何であろうか。それこそは、人間が神に戻ることである。そして人間の行為は、それが神に戻ろうとして神に向かう運動であるかぎりにおいて、たとえそれが外見にはいかに些細な行為であろうとも、「秀れた行為」であり、それこそは真の意味で人間の創造なのである」(62-3頁)ともいう。

要するに、聖化の道において、自由意志において、新生と栄化というすべての人を含む人類の目標を指し示す内容の作品を作り出すことは、それがどんなものであっても、創造なのだということである。

しかし、現実は、聖化の前の段階で、人は盛んに「創造活動」を行っているのかも知れない。キリスト者としては、そんな「創造活動」の成果を無視したり、排除するのではなくて、その目標に至るまでの道筋を作ることが求められているのかも知れない。

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全的堕落

あるブログに、「ローマ・カトリックは、人間の全的堕落を信ぜず」という書き込みを見つけました。こういう言い方は珍しいものではないでしょう。しかし、本当なのだろうか、と思います。

この全的堕落というのは、カルビン主義の5特質の一つです。しかし、トマスは人間の全的堕落を指摘しています。なぜなら、堕罪によって、神の似姿が失われた、と言っているからです。神の似姿を失うことが全的堕落を意味しています。

しかし、それでも神の像は失われていません。「ローマ・カトリックは、人間の全的堕落を信ぜず」という言い方は、堕罪にもかかわらず、この神の像が人間にある、という立場を指しているのだと思います。

しかし、これは、ルターも、カルビンも、堕罪後も人間の中に自由意志が全くなくなることはない、ということで了解しています。神の像がなくなれば、人間は人間でなくなります。しかし、堕罪後も、人間は人間で在り続けているのですから。

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2007年5月28日 (月)

トミスト

『トマス・アクィナス』(山田晶責任編集、中央公論社)は名著だと思います。この本で、トマスに対する興味が生まれました。しかし、その中で、びっくりするようなことを知りました。トミストの中にはペラギウス主義の人がいるというのです。

トマスは、最初は、セミ・ペラギウス主義であったが、アウグスチヌスを学ぶにつれて、その立場を捨てたと書いてきました。もちろん、そんな指摘があったのを繰り返したまでのことですが。

ですから、トマスはペラギウスの立場ではないというのは当たり前と思っていました。今でも、そう思います。しかし、トマスの教えを継承している、いわゆるトミストの中には、ペラギウス主義者もいるのだという指摘が、この本にあるのです。

有名な「恩恵は自然を破壊せず、却ってこれを完成する」という命題があります。その「完成」の意味は何でしょうか。こんな解釈もあるようです。

「或る人は、「自然が完成すれば恩恵になる」というように解釈する。あたかも種子が完成すれば大木に成るように、自然が完成すれば恩恵に成ると解釈する。この関係を倫理と宗教との関係にあてはめてみると、自然的に有徳の人がその徳を完成すれば立派なキリスト者に成るというように解釈される。これは自然と恩恵、道徳と宗教との関係を連続的に把えることであり、ペラギウス主義であるといって、トマスの立場は非難されるのである。
 私は、トミストたちのうちに、このようにトマスの「完成」を考えている人があり、そのような人々によって理解されたかぎりにおけると「トミズム」に対しては、上記の批判は当たっていることを認めざるを得ない」(45-46頁)

この個所には、正直、びっくりしました。恩恵と自然の関係には連続と断絶の両方があるのであって、一方だけの主張ではいけないのだと思います。

それにしても、ペラギウス主義を主張するトミストがいる、ということは、覚えておきたいと思います。いや、忘れることはできないでしょう。

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美しい国

「美は《世界を救うであろう》という驚くべきことばは、ドストエフスキーに帰せられている」
(『ドストエフスキーの世界観』ベルジャーエフ著)

「美しい国」というのは世界を救う国であるかも知れない。日本に、そんな自覚があるのだろうか。

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トマスの主知主義

「トマスにおいては、至福は神の直観に存し、直観とは知性によって神の本質を見ることであるとされるところから、トマスの立場を単純に「主知主義」intellectualism であると判断して、これをフランシスコ会の学者の主意主義 voluntarism に対比させる見解が通俗に普及しているが、ことがらはそのように簡単ではなく、知性による神の本質直観そのものが、恩恵としての「愛」caritas によって実現されると、トマス自身によって明言されていることに注意すべきである」(『トマス・アクィナス』山田晶責任編集、中央公論社、341頁)

恩恵のない状態での知性優先ではないということで、知性優先とは言われても、それが恩恵の内にあるということは、至福に関しては「情」が、また恩恵を受け取る信仰に関しては「意」が働いていて、「知」が単独に働いているということではないということであろう。それを指して、「ことがらはそのように簡単ではなく」、「注意すべき」と言っているのだろう。

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人間とは

「ピエティストの先駆者ヨーハン・アルント(1555-1621年)は、『真実のキリスト教』という本で、新プラトン主義の影響下に、人間はそもそも神の像にかたどってつくられたものであることを強調した。人間は堕罪(楽園追放)によって、この像をうしなったが、どんなに堕落しても「神にかたどったもの」としての本性は消えないというのである。ここには、神と人との関係をプラトン的なアナロギー(類比)として考える思想がある」(『非戦論』富岡幸一郎著、NTT出版、105頁)

これが宗教改革の核心的問題だったのだろうと思う。神の像は失われたが、同時に失われていない、という。このような言い方は矛盾ではないのか。

そこで、神の像と神の似姿の二つを考える。神の像とは人間の定義であり、神の似姿とは神との交わりである。堕罪で失われたのは神の似姿であり、神の像ではない。そして、神の似姿の回復は、神の像の力では不可能である。こう言えばいいのである。

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伝達

キェルケゴールの追求した問題は伝達内容に関しては神と人との絶対的・質的差異、伝達方法に関しては弁証法であった。前者は、神と人(神の像・似姿)との質的差異を指しているが、実際は神の像が似姿を受け取る時に知られるものであり、後者は、像と似姿との関係が似姿優位と見るのは抽象で、現実は肉と霊の関係になっているということを示している。

そこで伝達も二つのあり方があるかも知れない。物質文明を誇る米国のように伝達されるべきか、それとも共同体意識の深く、大きい、ベルジャーエフの描くロシアのように伝達されるべきなのだろうか。私は後者に共感を覚えているのだけれど。

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統一

多方面の断片的知識で成り立つ私に、人は言う、「彼には統一がない」と。しかし、統一はおのずから見えてくるだろう。私が私であって、同時に君でない限りは。生まれてくる統一こそ、真の統一であろう。それが私の着物なのだ。

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2007年5月27日 (日)

簡潔な言葉で

人間の真理認識の契機は何か。直感だと思う。直感を表現しなければならない。詩、アフォリズム、短編、短詩で。

日本人は長編小説的人種ではない。もっとあっさりしている。日本人は簡潔を好む。無くてならぬものは多くない。ただ一つだけである。この簡潔性が必要なのだ。内村鑑三の文体は日本人に合っているのだ。だから読まれている。

簡潔性はそれだけで一つの大いなる芸術の条件でありうる。俳句、短歌は日本の芸術である。我々はこのような芸術を重んじる。そして、そのように生きていけば良いのだ。そんな使命があるのだと思う。

ベルジャーエフが読めるのも、この簡潔性のためである。彼が言わんとしていることは、そんなに多くはない。その思想には核がある。この核の周囲に知識が集まる。

永遠と時間あるいは歴史との接点が、常に人間の運命を知るカギである。この接点を明瞭にしよう。この接点を我々の言葉で表現しなければならない。

哲学とは経験の整理、知識の整理である。哲学とは本質の把握、原理の認識である。神は未知なるものではあるが、聖霊によって、ある程度、既知なるものとなった。聖霊の中における知を求めていこう。このような哲学は西洋に負けるものではない。日本語で哲学しよう。ドイツ語でなく日本語で哲学しなければ、哲学は日本に定着しない。

時代というものを人間的にではなくて、神的に表現しなければならない。両者とも、バルコニーから見た「全体」観を語る。けれど、この二つの「全体」観は質的に異なる。神的「全体」のうちに本質が見えてくる。その視線の原点にあるものが、アナロギア・エンティスにおける神的人間性である。これが、原被造物であり、神の国の構成員である。歴史の中では、像という容器に似姿という内実を満たしていく中で視界が広がる。それが神の世界である。

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スピノザ

スピノザは レンズ磨きで 自立して
 生活低く 思いは高く

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夢遊病者

ふらふらと 夢遊病者の 如く生く
 明日の一瞥 たまにはちょっと

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権力

権力は 自己否定せず 超越を
 見失う時 墓穴掘る時

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2007年5月26日 (土)

国教

中世では、キリスト教は国教であった。そんな形の中では、求道心の純粋さが保持できるのだろうか。世俗社会の価値が教会の価値、神国の価値と同列でありうる社会では、福音の真実が、どのようにして保てるのだろうか。キリスト教国教化の前には、キリスト教の公認化があった。その流れの帰結が、国教化であった。そして、国教化が問題なのであれば、公認化も問題ではないであろうか。公認化から国教化への移行は、キリスト教の勝利なのだろうか、それとも敗北なのだろうか。公認化には、勝利といった物語が語られているのではあるが。

「ベルジャーエフが以前から抱いていた国家に対するアナーキズム的見解は、ドストエフスキーの「大審問官物語」のなかに、宗教的根拠を見出したのである。すなわち国家は、荒野におけるキリストの誘惑の一つであることが明らかとなった。ドストエフスキーだけがそれを「大審問官物語」のなかで正しく解釈したが、そこからロシア独裁政治と正教会に関する結論を出さなかった、とベルジャーエフは言う」
(『ベルジャーエフ哲学の基本理念』R・レスラー著、松口春美訳、行路社、71頁)

キリスト教の国教化は、キリスト教の勝利に見えても、視点を変えれば、サタンの誘惑に屈したことになるかも知れない、ということである。ドストエフスキーのカトリック嫌いは有名だが、こんな点に、その理由があるのだろうか。

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学び方

聖書読む 理論理性で 教えられ
 学ぶ限界 関心を主に

関心を 短歌で示し 話し合う
 そんな研究 ラザロ聖研

面白さ 分かればみんな ついてくる
 教会盛ん 陰の力に

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2007年5月25日 (金)

怖ろしい言葉

「『あなたがたに言うが、おおよそ持っている人には、なお与えられ、持っていない人からは、持っているものまでも取り上げられるであろう。…』」(ルカ19章26節)

これはイエスの言葉であり、時々、なんと怖ろしい言葉であろうか、と思う。資本主義、あるいは格差社会の残酷さを容認し、それが現実なんだよ、と突き放しているような感じもする。別の解釈もあるのかも知れない。そして、どういう意味なのだろうかと思う。

商売をするために、資金を多く与えられた者と、少しの資金しか与えられなかった者が、最後に儲けに応じて裁かれるというのである。

この物語では、与えられた資金の違いは量の違いである。しかし、質の違いと読んでもいいのではないだろうか。多く与えられた者とは特別恩寵を与えられた者である。少ししか与えられなかった者とは、一般恩寵のみの人たちである。そこには、確かに不公平がある。その理由は分からない。

一般恩寵のみの人たちが、最初は、たとえどれほど多くのものを持っていても、それらは、やがては特別恩寵の持ち主たちに分け与えられるものである。勝負は最初から決まっているのである。

そんな意味ではないかと思っている。

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実存とは何か

実存とは人間の内なる暗黒の確認である。教会の自然的恩寵のみでは、実存は分からない。

実存とは恩寵の超自然性の極みを人間に確認させ、それによりすがらざるを得なくさせるほどの、人間の内なる暗さの認識を内に秘めているのだ。

実存とは決して人間的な、一般的な、子どもたちに教えることのできるような概念ではない。従って、決して教科書的教育の中では教えられないようなものである。これは常に少数者の、そして単独者の十字架であり、かつ特権といえるかも知れない。

実存的真理がキリスト教の真理に優先するのではなく、実存とはキリスト教の真理の最も真剣な受容形態なのである。実存とは、それ以外の何物でもない。

実存とは確かにキリスト者のあり方なのである。しかしそれは常に、「理想的な」という条件が忘れられてはならない。キリスト者の理想的・極限的なあり方、これを実存と称するのである。

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価値の激突

現代青年に二つの表象がある。

一つの顔。

それは毎日の生活に追われ、疲れきった顔、体制の顔。けれど彼らは過去の栄光によって創造された形式の刻印を身におびている。

もう一つの顔がある。

つりあがった眼。すべての行動がキビキビしていて、固く結んだ口。偉大な主張者を表す突き出した頬。反体制の顔。大きな目的を常に眼前に描き、生活を忘れ、その目的のためにすべてを捧げる覚悟。何か非常な共感を覚える。

この共感は何だろうか。一直線な張り詰めた心なのだろうか。それとも単一の心のもつ輝きなのだろうか。

この二つの価値が今激突している。激突という言葉の無限大の強度で。

ああ断絶の時代よ。深刻なる時代よ。人はこの激突の中で、どこに立つべきか。

私は敢えて言いたい。価値激突の中間に立てと。

我らはこの世の者ならず。我らは見る。激突価値の両者とも客体化されている、と。両者とも、神の光の前で罪が浮かび上がる。その中間から不死鳥が飛び立つ。そして、不死鳥は二、三度、この荒れ狂う波の上を旋回し、やがて遠い国に消えてゆく。

不死鳥は神話的・伝説的イメージを付与され、神の不思議として、人々は、その謎の前に心砕かれるのだ。

(『らざろ』2号から、1969年待降節)

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マックス・ウエーバー

「とにかく彼は、内面的にはげしい基督者であった」(青山秀夫著『マックス・ウエーバー』岩波新書54)

ウエーバーはキリスト者であったという。改革派系のキリスト者であったのだろうか。妻マリアンネさんの回想記もあった。写真では気の強そうな感じの人だった。

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ふるさと納税制度

ふるさとは 天のあるもの 新生し
 聖化の道を 歩む者には

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2007年5月24日 (木)

教会博士

トマス・アクイナスの列聖は1323年7月18日のことであるが、彼はまた「教会博士」の称号も得ている。トリエント公会議の直後である。

トリエント公会議の期間は1545年から1563年であった。この公会議は、「ルター主義に対抗して開かれたローマ教会の公会議で、この歴史的な大会議場の中央にあった机上には聖書と「神学大全」とが終始置かれていて、常に会議を導く指針とされていたといわれる」と言われている(『トマス・アクイナス』印具徹著、日本基督教団出版部)。

トマスが、「教会博士」の称号を受けたのは1567年4月11日で、公会議の4年後のことであった。公会議の意識がうかがえるようだ。

ということは、プロテスタントがカトリックを理解するには、どうしてもトマスを理解しなければならないということであろう。印具氏はプロテスタントの人であるが、トマス研究により、西方教会の中の相互理解に努められた功績は覚えられなければならないと思う。

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人間学

「神は知性と感情と意志とをもっておられる霊である。人間は神の影である。人間もまた、知性と感情と意志とをもっている霊である」(『キリストの危機』キャンベル・モルガン著)。

カントの三批判書が、人間の知・情・意に対応するものであることを、放送大学で知った。そして、人が神の像であれば、神もまた、そのような区別があるかも知れない。三位一体の神という。しかし、モルガンは、神にも、知・情・意があるのだという。父・子・聖霊に対応する知・情・意なのだろうか。

いずれにしても、人の救いも、知・情・意の働きの中で行われている。①福音を知る、②信仰は意志である、③そして救いの実感は感情である。

今、教育再生が叫ばれているが、人間とは何かが分からなくて、教育はない、と思う。人間学の必要を思うのだが、この言葉もカントに始まっているのだという。かつて、「人間学など」と思っていたが、今は大切と思っている。

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パスカルの論争

「ジャンセニウスによると、人間はエデンの園を追放されて以来、罪と煩悩と快楽の奴隷におちた。人間は神の恩寵によらないかぎり、原罪から自由になることはできない。しかしその場合、神が救いに必要な恩寵を人間に恵み与えるのは、測り知れない秘儀に基づくのであって、個人個人の功徳の多寡、努力の如何にかかわるものではない。しかもかくしてひとたび与えられた恩寵はすべて絶対的に有効であり、人間の意志はそれにさからうことができない。真の信仰は、人間の本性の全面的無能と、神の恩寵の絶対的効力とを、認めるところに成り立つというのである。ジャンセニウスのこの思想はアウグスティヌスからの当然の帰結であるとはいえ、カルヴィンの予定救済説に紙一重というべきところがある」(『考える葦 パスカルの生涯と思想』松浪信三郎著)

パスカルは、ジャンセニウスの側に立って論争した。引用では、「ジャンセニウスのこの思想はアウグスティヌスからの当然の帰結」と言われている。カルビン主義の信仰も、その点を強調している。しかし、トマスもアウグスチヌスに学んでいて、半ペラギウス主義を訂正している。ジャンセニウスの論争を、もう一度、検証していけば、カトリックと改革派との神学的対話が可能ではないかと思う。

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天皇のカトリック改宗

週刊新潮の5月31日号に、「機密ファイルが明かす「昭和裏面史」 英国は「うつ状態」昭和天皇の「カトリック改宗」を警戒していた」という記事があると、新聞の広告にありました。書店で、その記事をざっと眺めました。

識者のコメントでは、天皇自身が改宗を考えていた時期があったとは、ありませんでした。このへんは、「あった」と主張する『天皇のロザリオ』も詳しいと思いますが、この本と機密ファイルと比べてみると、より正確な事実が浮かびあがってくるかも知れません。

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2007年5月23日 (水)

神の名

神の名は「不思議」という(士師記13・18)。肯定神学的思索の中では、人間にとってはたしかに最適な神の名前ではなかろうか。例えば、「ベルジャエフの哲学」(シュルツェ著)には、こんなことが言われている。

「精神の生活はパラドックスとして我々に捉えられ、認められる。存在の最も深い核心が明らかになる精神的生命の事柄は、理性や合理的意識にとっては逆説的であり、二律背反的である。それは概念の中に表現することができない」

肯定神学的な神の学びの中でも、こういう逆説的、二律背反的、表現不能的側面は語られているのだろう。しかし、この「不思議」は、二重予定の「不可解」と、どういう関係にあるのだろうか。

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解釈学

ディルタイ、解釈学という名前は知っていたが、余り関心がなかった。しかし、放送大学で、実は、重要な問題提起をしていることを知った。

大学の時、「哲学の本質」を読んだが、よく分からなかった。しかし、実は、実存主義思想とも関係する領域をディルタイも探っていたのであることを知った。

こんな言葉があった。

「哲学なる概念は、単に一つの普遍的事態を表すばかりでなく、それのある一つの連関--歴史的連関も表すのである。哲学者達は先ず初めに直接に世界と人生の謎に直面している。彼等が哲学なるものについてつくる様々な概念は、そこから生まれるのである。従って、哲学的精神がそののち取ったあらゆる立場というものは、遡ってこの根本問題に関わるのであり、生命のある哲学的仕事はいずれもみな、この連続の家で生まれるのであって、哲学なるものの過去は一人一人のあらゆる哲学者に働きかけている。それで、哲学的精神はたとえ大なる謎の解決について絶望に陥る場合でも、この過去の力によって、この謎の解決のためにさらに新しい立場をとらざるを得ない。だから哲学的意識のすべての立場およびこれらの立場を表現している哲学のすべての概念規定は、一つの歴史的転換を作るのである」

「哲学とは、精神がそのすべての態度について、その態度の究極の前提に至るまで行う精神の省察である」

思えば、精神分析も、解釈を求めているのである。そして、解釈が妥当であれば、それで病気は消えていくのであった。

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2007年5月21日 (月)

聖書無謬説

内村鑑三は「内村鑑三日記書簡全集」(1)で、「余は聖書無謬説のために弁ずるを得て、神の感謝する」と言っている。しかし、『基督信徒の慰め』では、聖書無謬説を否定している。

ということは、意見を変えたのでなければ、聖書無謬説の意味が違うのだろう。

逐語霊感、十全霊感は無謬説と言われるが、無誤説もある。無誤説も広い意味では無謬説の中に入るのだろうが、「そこまでは」という人もいるだろう。

断定する前に、よく本心を聞かねばならない。

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中世の瓦解

「自然的善は助けなしで可能であるが、霊的善には恩恵が絶対に必要であることを主張し、義認は瞬間的行為であることと、それが恩恵の注入で完成されることを説く。そこで罪人は、罪赦されるとともに義人とされると教え、更に協同恩恵が与えられて、人は功績行為を行うこともできるようになると言っている。その後にいよいよ混乱を増して行く誤った恩恵論の根元は、トマスの所説の欠陥にあったと見る人々が多い。その最も大きい一つは、過去においてキリストが救いを獲得してくださった事業と、現在において個々の罪人にそれを適用伝達して下さっている聖霊の事業との関係の密接性を示さなかったところにあると、ヘルマン・カイパーは『唯恩恵によって』の18頁で指摘している。このような批判は過去の改革派教理学者の共通意見のようである」(『改革派教理学教本』岡田稔著、新教出版社、316頁)

トマスの『神学大全』第一部105問以下で、この問題が取り扱われているという。

ここには、中世の崩壊が示唆されている。トマスの根本は正しいのだけれど、キリストの事業と聖霊の事業との関係に関して、欠陥があったという。詳しくは分からないが、秘蹟に閉じ込められない聖霊の自由な働きを指しているのだろうか。

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二重予定の「なぜ」

「なぜヤコブに与えエサウには与えないのかと問われれば、、それが神の意志だからとより外に答えられない。恩恵の主権者はその自由性による。値しない者に与える自由は全く主権的な御心のままである。それは人間には測り知れぬとは言え不公平ではない。一般論として、全部の者にでなく、一部の人々にということだけならば、漠然としていても何か理由がありそうだと考えることができても、具体的にAに与えてBに与えられぬ理由はとなると、それは全くわれわれには理解できない」(『改革派教理学教本』岡田稔著、新教出版社、330頁)

最初の文章の目的格は「恩恵」である。改革派は二重予定を信じている。しかし、その教理学を教えていた人も、それが不公平ではないと言いつつも、その理由は、「理解できない」と言っている。その理解できないことに、理解を求めようとする時、信仰が維持できなくなるのである。

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日本人

日本人 こんなものかと 思う時
 逆の驚き それもあるけど

日本人ついて、余り優秀でないと思う時と、逆に非常に優秀と思う時と、両方あります。

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2007年5月20日 (日)

歴史は忘れない

 ベルジャーエフは西洋のとくにドイツの影響を強く受けているのであるが、やはりその心はロシア的である。和魂洋才の明治の先駆者たちと同様、ベルジャーエフも西洋の事情に明るく、洋才に優れていたとはいえ、やはりその魂はロシアの魂であり、アナーキー的、終末論的、黙示的、形而上学的なロシアの魂である。

 ベルジャーエフはロシアの子である。彼は徹底的に自分の意識の現実を語るのだが、それはまた同時に、ロシアの精神性の優れた紹介になっている。彼は常にロシアを意識していた。そしてロシア人を、ユダヤ人のような神をはらめる国民、天啓と霊感の民、強い愛と激しい憎しみのいずれをも最高度に燃え立たせることのできる国民と考えていた。そして、ロシアの魂の複雑怪奇性を、その内に東洋と西洋を持っていることとして理解している。確かに我々はベルジャーエフの直感的・総合的・神秘主義的思考の中に東洋を見る思いがする。

 キリスト教の真理を人間は完全に表現することはできないだろう。人間は必ず何かの哲学、時代思潮との結びつきの中でキリスト教をとらえているものである。この時代性の制約は免れることはできない。この時代性を現代において最も将来性のある思想との関連の中でとらえることが必要ではないだろうか。ベルジャーエフは、創造活動の考え方において、正にこの最先端のキリスト教を説いているような気がする。創造活動という言葉と共に、歴史はベルジャーエフを忘れることが出来ないであろう。

 「これらのことをあかしする方が仰せになる、『しかり、わたしはすぐに来る』。アァメン、主イエスよ、きたりませ」(ヨハネの黙示録 22-20)

■ベルジャーエフについての一連の投稿は、これで終わりです。以後、散発的に書くかも知れません。

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天才

 ベルジャーエフの著書を読むと、我々は彼の情熱に感心し、また彼の徹底的首尾一貫性に、率直性に驚く。原理に対してあくまで忠実であり、その原理を彼独自の意識の論理的必然性に従って展開していき、その結果が如何なるものであろうと、それを主張していく彼の大胆さにうたれる。しかし、このように彼の著書を感激を持って読み進みつつも、彼について何かを言おうとすると、いつも彼がどこかに隠れてしまうようで仕方がない。

 彼は徹頭徹尾、自分が哲学者だと言ってはいるが、概念の研究者としての哲学者というよりは、一人の偉大な賢人と言った方が良いかも知れない。「天才とは、その頭の中で表象としての世界が一段と高い明るさに達し、ひときわ鮮やかな姿をとって現われているような、そういう人間のことである。そして、もっとも重要でもっとも深い洞察を提供するのは、個々の事物についての細心な観察ではなく、全体の把握の充実度なのであるから、人類が最大の教訓を仰ぎうるのは、この天才からである。彼は円熟の域に達すれば、それを何らかの形で与えるであろう。してみれば、天才を定義して、事物についての--ひいてはまたその対立者たる自己自身についての--際立って明らかな意識である、ということもできる。人類が事物と彼ら自身の本質についての解明を求めて、ふり仰ぐことができるのは、かような天才を恵まれた人である」(『知性について』133頁)とショーペンハウエルは言っているが、ベルジャーエフはまさにそのような天才であったといえるであろう。

 「非凡な人々、天才的な人々は一面において孤独であり、理解されず、その環境とその時代へのはたらきかけから手を引いてはいるが、彼らはなお他面においては自分自身の中に閉じこもらず、世界を進展させる精神力を顕示することによってその時代に先行していくのである。真に卓越した人物は、真の創造的人物はグループをなしては行動しない、個的存在として行動する。彼らはどれも自立独往であり、しかもその民族の深い生命に親しく結びついている」(『神と人間の実存的弁証法』)。

 ベルジャーエフはこのような人間ではなかったか。ベルジャーエフには確かにその思想の核になっている重要な概念がいくつかあって、それらが彼の内に有機的に統一されており、その内的・全体的運動において歴史上、主導権を握ってきたさまざまな思想を批判・検討しているのである。そして、そのいくつかの思想の核に「自由」とか、「創造」とか言われるものがあるのである。そのような彼の思想の骨格を形成しているようなものに関しては、彼がロシア人であることを感じる。

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歴史の権威

 ベルジャーエフは「全き人間」ではない。「全き人間」に内在する権威主義的性格は彼には無縁である。彼は歴史の場においては、いかなる権威も認めない。しかし、権威が存在するのは歴史の場においてである。ここには弁証法的思考が必要である。

 権威とは元来、社会の頑迷さを背景にして存在しているのであって、それ自身、肯定神学の用語である。しかし神秘主義は、この権威と社会的頑迷さという対立を意識の緊張の中に神秘的に超越し、全き自由の世界を開く。真の権威は全く自由に、権威的でない人間の自由な創造活動の中に不可見的に、インコグニトに伝わる。それに引き換え、可見的権威とは真の権威の歴史である実存史の象徴にすぎず、その象徴性のゆえに真の権威からは無限に離れているものである。

 可見的権威とは非実存的主体の参与を許す。しかし、不可見的権威とは実存の内にのみ開示される自由であって、そこは権威的人間の立ち入り禁止区域である。

 権威とは元来、実存主義とは無縁の言葉である。自分の安全を、技術的存在のままで客観的権威と外面的に結びつけて得ようとする不誠実な人間存在は実存の敵である。これが実存主義の根本にある英雄的力強さであり、決断、企投という意味に対する主体的参与の価値を無限に減ぜしめる客観的権威というものに対しては、実存主義は歴史の終わりまで戦い続けなければならない運命にある。

 ベルジャーエフはそのような意味において、歴史における権威を認めないのであり、キリスト教神学も肯定神学よりは否定神学の方が優れているとして、常に終末論的実存を確保するのである。

 それ故に彼は条件付きのロマン主義者である。古典主義は完成された形式である。しかし、完成された形式というものは、この歴史の場にあっては成立しない。この歴史の場において完成されたものを打ち出せば、それはどうしても抽象作用によらざるを得ないので、具体的人間の生命を殺してしまう。

 だが、彼には生命こそ、人間の具体性こそ、最も大きな関心である。跳躍の名人である彼は、それ故に、ロマン主義に傾く。彼はこのロマン主義的無形式の中に宗教的象徴を取り入れ、有機的統一を現していく。そこには不可見的無形式、しかし不可見的、宗教的な首尾一貫性がある。彼は「私の思考過程、認識過程が、人々がそれを普通よく叙述しているのとは異なった仕方で、行なわれた」(『わが生涯』302頁)と言っている。彼は彼の深い意識の現実をそのまま表現しているのである。

 それゆえに、ある意味では、ベルジャーエフ紹介は非常に困難である。彼の言葉をその全体から切り離すと、そのとたんにその言葉は死んでしまうからである。ベルジャーエフは、人間は人格、小宇宙、全体であるから、その本質は断じて客体化を許さないものであるのに、それを科学的方法である認識の客体化作用でとらえようとする時、俄然、英雄的な抗議者になり、非体系的になる。

 聖書は「霊の人は、すべてのものを判断するが、自分自身はだれからも判断されることはない」(第一コリント2・15)と言っているが、ベルジャーエフはそんな霊の人である。彼は、どこから来て、どこへ行くのかわからない聖霊の息吹に対して、それをもし、人間の形式の中で生かそうなどと形式に苦慮していたら、その現実を見失い、真理を知らせることができなくなってしまうと考えて、ドストエフスキー同様、あえて形式を犠牲にしたのであろう。

 彼はこう考えたのであろう。人間は内的にある全体者から分離している。それ故に、そのままでは破滅以外の何者でもない。そのため、社会的権力とその社会に秩序を与える形式が生まれたのである。形式は人間が分離し、自滅するのを防ぐ絆である。内面的な関係、愛という関係のなくなった人間に、その愛のかわりに人間を結びつけるものとして、形式が生まれたのである。であるから、内面的原理としての愛は形式を拒否する。なぜなら、それは形式を必要としないからである。形式は常に人間の結びつきがない、ということに対する弁証法的補いである。それゆえに形式は常にそれ自身、無意味である。彼はこの形式の代わりに理念を与える。一つの幻を、夢を語るのであり、この幻、夢で人々を内的に、主体的に結びつけようとしているのである。人間を歪め、人間を殺す形式の否定、それも、それに代わる神の現実としての幻、夢による積極的否定、ここに彼の非体系的哲学者としての言い分がある。

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新約時代の「預言者」

 ベルジャーエフは体系的な哲学者ではない。彼はある意味では、思っていることをそのまま文章にしていくような人間である。「ある意味で」と言ったのは、彼は単なる「放恣」な思想家ではなく、内部の声が告げるままに書く、といっているからである。

 このような主張は非常に預言者的であると思われるが、実際、彼はキリスト教意識の「新生面を秘蹟の気圏においてではなく、預言の気圏に認めたのである」(『わが生涯』214頁)。

 預言者というと、旧約聖書の預言者たちを思う。そのような役割は、イエスの誕生、そして新約の時代に入ってなくなった。しかし、新約聖書の中にも、預言者という言葉が出てくる。「神は、教会の中にいろいろな人をお立てになりました。第一に使徒、第二に預言者、……」(第一コリント12・28)。新約の時代にも、預言者がいる、ということである。しかし、その具体的イメージはあるのだろうか。

 ベルジャーエフはこういっている。

 「私にとってもっとも重要な私の思想は、内発的な光線の束のごとくに湧きのぼってきて、電光のごとくに私に閃めくのである。私が執筆をはじめるとき、ときとしてはあまりにも強烈に高みへともちあげられ、そのために眩暈を感じたことさえある。私の思想は、それを書きとめる時間がないくらい、はげしい速度で奔騰する。思想の飛翔について行こうとすれば、言葉を書きおえることができない。私は形式を考えない。形式はおのずからそこに具現するのである。もともと私の思考は精神内部の言葉ときわめて密接に結びあっているのである。書いたものはほとんど訂正したり、熟考したりする必要がない。私は私が最初に書き下したとおりに印刷させる」(『わが生涯』302頁)。

 彼は、それ故に、自分の哲学がアカデミー派の哲学者たちのような厳格な方法を用いた、熟慮を経た、論証的、演繹的なものではなくて、直観的、総合的な具象的・全一的哲学であると言っている。彼はいわゆる講壇哲学者ではなくして、一人の自由な宗教思想家、それもポレミックな闘争的宗教思想家なのである。それはまた、ある意味で、新約時代の「預言者」のイメージでもあるのではないか。

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神秘的アナーキスト

 彼は「しかし私は、私が当初から自分を己れにとって異教的な世界にやってきた外来者と感じたということを、きわめてはっきりおぼえている」(『わが生涯』15頁)といって、全生涯を通じて彼の中に、人が分派・分立主義と名付けた要素、形而上学的アナーキズムの要素が存続したことを認めている。

 また彼には彼の祖国ならびに全世界の破局的な時節に生きるという運命が下され、そのため、彼はもともと破局的な生活感情が固有であると感じている。そしてこのようなところから、彼は生涯、独行者として生き、彼に異質的なこの世界の転換を目指して革命的アナーキズムに親近感を覚えたのである。

 我々が今、生きているこの世界は彼に対してどのような反応を示すであろうか。彼ほど徹底的な精神的、宗教的アナーキストが存在したということに対して、世界は深く己の面目を反省せねばなるまい。

 彼は、こう言っている。

「自分の全存在が超越的なるものに対する憧憬の徴のもとにあった」「私は多くのことに関係をもつに至った。しかし実際は、私の最深奥においては、いかなるものにも『断じて』所属しておらず、また全的に自己を捧げたいと思うものもなかった--私の創造活動を除外すれば。私の本質の深所はつねに或るなにか別なるものに所属していたのである。その際しかし私は決して社会問題にたいして無関心であったわけではなかった--反対にそのためにはげしく奮闘した。私はたしかに『公民』意識に欠けてはいなかった。しかし実際は私は深い意味において反社会的であった。私は社会活動に同化しきれる人間では決してなかった。諸種の社会潮流が私を完全にその同志の一人とみなしたことは一度もなかった。私はつねに精神的領域における『アナーキスト』--そして『個人主義者』であった」「私はいまだかつてこの世のなにものにたいしてであれ、それに従属しようと思ったことはなく、また従属することもできなかった。ともかくも--この性質の長所は不羈独立の強い衝動であった」(わが生涯)

 彼は偉大な宗教的、神秘的アナーキストであったのである。ただ愛の原理、自由の原理だけを認めて、それにあくまで忠実であるベルジャーエフの哲学は彼の個性によって激しく決定されている。

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対立的思考

 ベルジャーエフは徹底的に否定神学を主張する。否定神学における「神はすべてを超越する」ということは肯定神学の「神は絶対他者である」と同様ではないだろうか。このように、彼は肯定神学の根本をよく理解しておりながら、それを常に否定神学的に表現していく。なぜか。「肯定神学は社会的暗示の支配を受けている」(『わが生涯』238頁)が、「神は真理であり、この世は虚偽である」(『わが生涯』238頁)という対立的思考があるからである。

 では、この世は虚偽であるとは、どういうことか。それに対してベルジャーエフは、「人間社会は恐怖の上に建てられている。しかも人間社会が恐怖の上に建てられてあるので、人間社会はまた虚偽の上に建てられてあるのを知る。なんとなれば、恐怖は虚偽を産むからである」(『神と人間の実存的弁証法』)と言って、人間社会の根底に恐怖を見ている。

 また、「国家において勝利を収めたものは、キリストではなくて、反キリストであった。国家は神の国、キリストの国に逆らって打樹てられたカイザルの国である。キリスト教徒はここに永住の都を持たない。彼はやがて到来する都を求める。これは真にロシア的な理念である」(『ロシア思想史』)といって、「到来する都」に目を注ぎ、この方向に自由と創造活動を考えている。ここに典型的なキリスト教実存主義があり、教会の隷従的思考に対して、歴史的教会よりも広いキリストの神秘的教会のうちにあって、単独者的思考をベルジャーエフは実践しているのである。ベルジャーエフは、「自分がキリストの神秘的教会の会員であることを常住に感じている」(『わが生涯』280頁)という。

 社会は形式、組織、秩序の堕落態であり、強制である。しかし、神は自由である。「神は一警官よりも権力がない」(『わが生涯』)。それ故に社会に適用される形式は神には適用されない。神の自由は、アナーキストの自由である。外からの強制的形式ではなく、内から自発的に出てくる愛の秩序である。

 国家と神の国との関係を、ここまで対立的にとらえる図式は西方教会の中では不可能ではないかと思う。従って、現代的註釈をつけながら読むという保留の中であれば、その思想は、大いにわれわれを益すると思う。

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回心

 回心は世界を二つの分ける原点である。もちろん、生涯にわたる回心を考えることもできるが、ここでは新生に結びつく回心を考えている。

 キリスト教は回心によって決定的に規定されていると思う。従って、回心なきキリスト教を考えることはできない。しかし、正教にとっては回心はほとんど問題にならないようで、ベルジャーエフも自分には回心と呼ばれるものがなかったという。

 もちろん、正教の公式見解が、そうだというのではなくて、ベルジャーエフの見解なのだということを断らねばならない。もっとも、こんな言葉もある。「わたしは、青年時代に、意味(神)と、永遠(救い)とを、探究しようと決心した。この探究こそ、私の回心ともいうべきであり、哲学への召命であった」(『ベルジャエフ』田口貞夫著)

 しかし、一方、彼は罪と悪をよく知っている。この世界は今や没落に向かってなだれ落ちている、とまで言う。神は絶対他者であることをよく知っている。

 そこで問いが起きる。回心なくして、罪・悪そして神を知ることができるのだろうか。
次の二つの聖句によって、それは矛盾ではないだろうか。

「だれでも新しく生まれなければ、神の国を見ることはできない」(ヨハネ3・3)、「それがきたら、罪と義とさばきとについて、世の人の目を開くであろう」(ヨハネ16・8)、

 すなわち、聖霊なくしては、真に罪が何であるかわからないのであるが、聖霊は生まれながらすべての人が持っているものではなくて、キリストに対する信仰という内的出来事、すなわち回心によって与えられるものであるので、回心なくして真に罪が何であるかを知っているのは矛盾であると思えるのである。

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三浦光世さん

病床の 後の妻見て 驚きぬ
 大きな瞳 吸い込まれんと

2007年5月20日、21日、こころの時代に、故三浦綾子さんの夫、光世さんが、綾子さんとの人生を語っています。夫妻とも病気との壮絶な生涯であったと思わされました。

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挫折を知らず

 ベルジャーエフは生涯書き続けた。書くことは彼にとっては精神衛生学、瞑想と集中、生きる方法であった。彼はどんな条件のもとでも、どんな精神状態のもとでも、常に筆をとることができた。39度の発熱をおかして、激しい頭痛をおかして、またどんな不利な条件下でも、たとえば1917年10月のモスクワ砲撃の際にも、1940年から44年にわたるパリにおいても、書くことができた。

 彼は青年時代、マルクス主義に走り、それから理想主義哲学を通過してキリスト教に到達した。この過程の中に、彼は挫折を味わってはいない。彼には自分を否定するという面がほとんどない。それは、「破門や追放をば私は、あたかも私自身が破門を宣告したかのように感ずる。破門するのは私である。私が破門されるのではない」(『わが生涯』131頁)という程度に徹底している。

 挫折は非本来的自己の挫折でなければならない。本来的自己の挫折はヨナにおける大魚への道である。それ故に常に自己の本来性を意識し、それに固執していた彼は非本来性には徹底的に否定的であり、本来性には徹底的に肯定的であった。

 彼の本来性の自覚は「子供のころから、私は私の使命を強く感じた。私は人生においてなにを選び、どんな道を歩むべきかについて、思いまどったことはなかった」(『わが生涯』62頁)というほどであり、彼の生涯は、使命という一直線の道であった。

 このような彼の意識には、人類の最初の、それゆえ、原因という意味で最大のスキャンダルである原罪でさえも、積極的な価値をもつのであった。彼は客体化の世界を徹底的に否定する。しかし、客体化世界の原因は原罪であろう。

 原罪の問題は西方教会ではアウグスチヌス以来、大問題であり、今でもそうである。しかし、彼は、そのような意味での深刻さを原罪に見ていないのである。彼は、原罪のゆえに人間は偉大なのだと言う。おそらく、こうう言葉は西方教会からは聞こえてこないに違いない。

 「原罪の意識には、人間をいやしめるなにものも存在していない。それは『なんじはちりなればちりに帰れ』という人間存在のはかなさを信じることとはまったく意味が違うのである。まことに楽園喪失の神話は人間の偉大さを物語っている神話である」(『人間の運命』101頁)。

 無意識、意識、超意識と発展的にとらえていく彼のキリスト者意識にあっては、人間は原罪によっても決定的に有限化、絶望的な存在にされたのではなくして、人間の内に宿る神の像、人格の原理は、その壁を突破すると主張するのである。彼の哲学は、それ故、終始、人格主義の哲学でもある。そして彼はこの人格を闘争の旗印にし、この人格に全面的な信頼を置いているのである。

 楽園喪失は人間の不幸の原点である。その原因である自由意志が楽園追放後、救いとどんな関係にあるかをめぐり、16世紀の宗教改革は起きた。そして、その自由意志が救いの条件の中にはない、ということが、延々と議論されてきて、世紀末、カトリックとプロテスタントで合意された。しかし、ベルジャーエフは「楽園喪失の神話は人間の偉大さを物語っている」という。こういう言葉は、われわれが親しんでいる西方教会の、どこを見ても出てこないのではないだろうか。表現だけなら、ペラギウス主義の居直りのようにしか見えないのである。こんな注解を付すこともできるだろうかと思う。

 

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人格の両性

 ベルジャーエフは彼独特の、世界に対する二元論的把握からして、人格に無縁な非人間的な堕ちた世界からのいかなる客体化作用、形式付与に対しても、徹底的に能動的であった。

 人格とは何か、人格とは男性的なものと女性的なものとが有機的に結合することである。人格は、その奥に深く女性的一致感を宿しつつ、なお社会的形式の原因に見える男性的構造的性格の歪みに戦いを続けることによって、その外的形式を内的形式との融合のうちに変質させる力である。

 ロシアの異教性とはその広大な国土を支配する物理的自然力の暴力に象徴されるごとく、人間の精神性における母なる大地、女性的なものによる理性に対する「暴力」のことである。ベルジャーエフはその神秘主義的性格からして、この女性的なものの一致感に深く陶酔しつつも、なお領土的、闘志的気質、その貴族性から、社会の無味乾燥な、女性的なものの全くない、ただ男性的なもののみの疎外的形式に対して断固、戦い抜いたのである。

 人間は真に人間になるためには、男性は女性を必要とし、女性は男性を必要とする。しかし、そのような要求から自然主義的に結びつく男女両性はそれ自身一つの抽象であり、現実的には不可能であるが、ただ全き人間の象徴としてのみ意味がある。そして、そのような自然主義的男女両性の結合は、ただ精神(霊)の中にあって、真に具体性、現実性を得るであろう。そして、そのような姿こそ普遍的教会の姿であり、理性的構造的であるローマ教会はその男性的側面を、また感情的一致的である正教会は、その女性的側面を表していると、哲学的に言えるのではなかろうか。

 ベルジャーエフは外に向かっては非常に男性的力強さにあふれているが、その内面においては深く女性的な魂であり、絶えず深い一体感を求めていたのである。それゆえに彼は絶えず単なる社会的形式という半分のみの男性性を否定していった。

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闘争的精神

 ベルジャーエフは非常に能動的な精神である。しかし、単に人間の罪性による有限性の内において徹底的に能動的であるというのではなくして--もしそうであったら創造活動は彼とは無縁だっただろう--、その有限性に打ち勝ち、無限性に対する憧憬において能動的であった。それ故に、彼には何か神話的、伝説的なイメージも漂っている。

 彼には非常にはっきりした現実意識、歴史的現実に対するとぎすまされた意識がある。しかしまた同時に彼は大きな幻の中に生きたのである。精神の幻の中に生き、その幻を創造活動によって把握し、打ち出した。

 我々にとって、ベルジャーエフのイメージは徹底的な抗議的精神である。闘争する精神、自然の悪魔的諸力、異教の無化力、あいまい性に対して、最後まで戦い続けた精神である。

 「人間の圧倒的大多数は-[名ばかりの]キリスト教徒も彼らが唯物主義者である限り、この中に含まれる-精神(霊)の力を信じない」(『神と人間の実存弁証法』)。

 しかし彼は、精神の力を信じない人間の圧倒的大多数に対して、ひとり徹底的に精神(霊)の力を信じ通した。このような彼の闘争的精神は、古代ギリシャの哲学者が人生の目的に幸福という静的な、自己満足的な概念を打ち出したのに対して、「幸福は人生の明確な目的ではない」(『神と人間の実存弁証法』)とはっきり拒否している。そして「幸福は恩恵の一時的瞬間として与えられるに過ぎない。真理はこれを求め、無限なるものを追求する人々によってのみ、到達されうるものである。真理はただ道を通し、生活を通してのみ与えられる。それであるから、真理はつねに戦いとられうべきものである」(『神と人間の実存弁証法』)という。真理は常に受動的贈与として主体に所有されている時にのみ、その真理獲得の闘争が意味をもつのだという反論もあるであろうが、この「真理を戦いとる」というところに彼の生涯を貫いている一つの基本線を見ることができる。

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2007年5月19日 (土)

率直かつ具体

 ベルジャーエフが私にとって非常に重要な思想家として現れてきたのは、彼の徹底的な率直性と具体性のためである。

 彼の率直性は彼の自叙伝を読めば、一目瞭然である。彼は共産主義を共産主義社会の中にいながら、堂々と原理的に、すなわち哲学的に、人格主義の観点から批判し、自己の所信を述べることを恐れなかった(『わが生涯』329-330頁)。

 一方、彼の具体性とは、換言すれば、実践理性への優位であり、そこでは社会的相対性を帯びるすべてのものが原理的に客体化され、事柄の中心問題が繰り返し語られている。おおよそ、私の実践理性に関係ないすべては私にとって無価値であり、無意味である、とベルジャーエフの態度は一貫して、この実践理性優位な立場である。

 この態度は、近世主観主義として非難されるかもしれないが、単なる皮相的主観主義ではない。逆説的に見えるかもしれないが、人間の真の問題を扱うのに、客観主義の代表とでもいうべき科学的方法を用いて、人間を科学の対象と見る態度では、限界があるということである。

 ベルジャーエフの「主観主義」は、絶対者と結びつく主観主義であるゆえに、そこにおいて、個人の自由と独立など、基本的人権に暴力を加えない方法において、客観的価値を潜在的に主張しているのである。この態度の非常に急進的な姿がベルジャーエフである。

 そして、この中にロシア的無政府主義的魂が神と結びついたときの積極的価値を見ることができる。彼は共産主義批判のために、亡命しなければならなくなったが、この亡命も彼からロシア的心性を奪うことなく、西欧文化圏との接触によって、ますます彼にロシアの根本的性格とその天職を認識させるに役立ったというべきであろう。

 内村鑑三は常に、私は二つのJ、すなわちイエスと日本に仕えるといっていた。彼のキリスト教が絶えず、日本の支配的時代思潮の中で、日本の真の天職を表すという形で主張されているように、ベルジャーエフも自分がロシア人であることを絶えず意識し、ロシアという特殊性を介してキリスト教という普遍性を主張しているのである。

 彼は終始、存在の中心問題に突進する。ある特定の時代、特定の地域で具体性をもつものを、彼はどんどん超えていき、存在するすべてが、そこから存在を受け取っている場所へと上昇して行き、その絶対的自由からすべてを見下ろすのである。それゆえ、彼の著書を読むとき、我々は、彼が我々の至聖所の近くにいることを感ずる。人間が神の像であり、人格である限り、彼はその現実の誠実な解釈者である。

 ベルジャーエフは相対者を相対として解釈する。それゆえに人間の魂に直接訴えず、ただ理論理性のみ満足させる学者とは違う。相対者を絶対者において解釈するがゆえに、そこに絶えず全体との関係が現れ、人間の真の救済、解放への配慮が、全著書にみなぎっている。具体性とは人間の救済に関係しているということである。ベルジャーエフの著書のどこを見ても、人間の救済に関係していないところがない。彼は我々にとって、全く具体的である。

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魅力

 ベルジャーエフは自分が、ドストエフスキーの描いた「ロシアの少年たち」に属していることを老年になって自覚している。彼は少年時代から始まって生涯、あの「のろわれた問題」、形而上学的な、神の問題で悩み、ついにロシアにうち建てられた宗教哲学の創造者の一人になってしまった。

 ベルジャーエフは、精神世界における一個の強力な磁力であり、彼の文章から一度、彼の情熱を知った者は、彼にとことん付いていくのではないだろうか。キェルケゴールは、デンマークにおいて読者をはっきり分けると言われているが、ベルジャーエフもそれと同じように、読者を熱狂と冷淡に分けるようである。

では何故ベルジャーエフは人をかくまで魅了するのだろうか。それは彼独特の熱気を帯びたロシア的美のためである。悲劇が最大の美でありうる、という。彼の美は悲劇を知らない古典主義的・抽象的な美ではなくして、意識の中に非常に深く悲劇が浸透しているがゆえに、人間の復権という点で、強烈にロマン主義的情熱と結び付き、悲劇の彼方にある全き希望を強調するがゆえに、普遍的な美になっていると思う。

 ベルジャーエフは「たんに観察しているだけで美は主体から創造的活動を要求するものである」(神と人間の実存的弁証法)という。ベルジャーエフという非常に創造的な魂、ロシア的・動的な美を前にして、人はもし真理を求める心があれば、呼応して何らかの創造活動に参与しないではいられないであろう。

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神と人との協働

 キェルケゴールはキリスト教的真理を世俗化したといわれる。ベルジャーエフの創造活動も同様に世俗人の観念の領域におけるキリスト教の弁証であろうか。キリスト教宣教の中心メッセージは「イエスはキリスト」ということであるが、ベルジャーエフはこの単純なメッセージを時代思潮の中で終末論的に説明していったのではなかろうか。

 彼のキリスト教は、厳密には教会的キリスト教という枠には入らない彼独自のものではあるにしても、創造活動は世俗的文化創造活動ではなくて、教会の証し活動であり、信仰告白とも考えられる。その意味では教会の宣教活動と本質的には異なるものではない。いや、キリスト教思想として、宣教の条件作りと見た方がよい、安全かも知れない。

 創造活動は常に聖霊のうちにおいて行われる(『人間の運命』299頁)。これは創造活動が神の活動であるということである。しかし、それでも彼は徹底的に人間の活動であると主張するのであるが、これは神と人間とのカテゴリーが西欧とロシアとでは多少異なっているためである。それは神と人との協働活動である。救いを得るための協働ではなくて、救われたあとの協働である。

 ベルジャーエフは肯定神学的な神を考えていない。もし肯定神学の神が唯一であれば、私は破滅だと言っている。

 「私は神の実存を疑わない、しかしときとして、夢魔のごとくに私を襲う想念の浮かびあがる瞬間がやってくる。神と人間の関係を社会学的に主と僕の関係として把握する彼ら正教徒たちが、もしも、もしも正しいとしたならば、どうなるであろうか? そのときには一切は破滅する。その時には私もまた破滅だ! この夢魔は私には諸宗教の世界を徘徊する悪神のごとくに思われる。しかるに人々は、その奴隷的情念のゆえに、これを『善神』として夢想するのである。このような神にたいしては、異なった宗教的経験が主張されねばならない。神は人間によっては理解されない。神は人間に創造的応答という大胆な冒険を期待する。これがその経験である」(『わが生涯』282,3頁)。

 このように、彼は肯定神学的神を考えていないのであるが、それはなぜか。

 それは肯定神学の中に社会的秩序と形式があるからであり、彼の観念では、それらが堕落と不自由に結びついているからである。肯定神学的神は決定論的神であって、そこでは人間は服従するだけであって創造することはできない。創造活動は神を否定神学的に理解しなければならない。彼はこのように主張することによって、世界に対して自分を単独者として対立せしめている。これは人間を小宇宙ととらえる彼の自信である。小宇宙としての人間は、単独者、実存であって、自分の問題の解決を人間の集団の中における外的・客観的権威に期待する人間存在のことではない。

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創造活動の使命

 ベルジャーエフは生涯、人間には創造活動の使命があると確信し続けた。そして彼は死ぬ間際まで、それを実践した。

 では一体、彼の言うように人間に創造活動の使命があるのだろうか。

 創造活動には才能が必要である。この点では、全ての人に創造活動ができるとはいえない。しかし、その創造活動の本質に関しては、全てのキリスト者に、当為として、あるいは義認からの論理的必然性としての聖化のうちに妥当するものである。

 本質的に把握された創造活動は神の人格的語りかけに対する人間の人格的応答であり、信仰そのものである。ベルジャーエフは創造活動は人間を義認すると言っているが、それは「信仰義認」の「義認」ではないであろう。聖化のプロセスにおける人間の主体性の必要性を訴えているからである。この段階では、信仰は新生におけるような絶対他力、完全受動ではなく、応答性、能動性として見られるべきである。

 キリスト者は真の創造活動をなす。そしてすべての人間は救われなければならぬ、キリスト者になるべきであるという見地に立てば、人間には創造活動の使命がある、といえるかも知れない。これもまた、人によっては独断的に聞こえるであろうけれど。

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実存弁証法

 あらゆるカイロス(瞬間)には深い永遠との接触があった。しかし、そのようにして得られた価値や意味も、それによって人間が解放されていくプロセスにあって、自然的人間、非本来的人間の幸福が目的化されていく。此岸的人間が中心を占め、永遠は見失われていく。そして、やがて転換が起きる。これが実存弁証法である。

 ある客観的価値の質的変化がそれを担う人間の交代とともに起こる。それはマックス・ウェーバーの説く、プロテスタントティズムと資本主義との関係にそのよい例を得るだろう。

 いや、実存主義そのものが、実存弁証法的展開のよい例を提供している。それは最初、キェルケゴールにより主張された。しかし、その後、キリスト教的契機が失われていき、無神論的実存主義が社会に歓迎されるようになった。キリスト教的契機を持たない実存主義を、果たしてキェルケゴールは考えることができたであろうか。

 カトリック教会は、そういう風潮に警告を出さざるを得なかった。

 カトリック教会では、実存主義に対しては、批判的な対応をしてきた。ピウス12世の「回勅」(フマニ・ゲネリス)は、「カトリック教義の土台を崩そうとする誤った見解」に、強い語調で警告がされている。その中には、進化論、偽りの平和主義、そして実存主義も挙げられている。実存主義に対して「変わらざる事物の本質に目をとめず、個々の実存にのみ注目するのである」と批判する。

 日本で、学問に生涯を捧げたドイツ人神父も、そんな回勅の精神を受け止めたのであろうか、実存主義への警戒感を表明している。

 「実存主義は克服されればならぬ何ものかである。なぜなら、実存主義をつきつめてみれば、それは、混沌として世界が崩壊するように感じ、自分は或る時期の終末に生きているのみでなく、事物が無となる終末そのものに到達したと痛感する最後の人間の生活感情であるからだ」(『マルキシズムと実存主義の間』ハインリヒ・デュモリン著)。

 その見解が、そのままベルジャーエフの実存主義に適用されるとは思わないが、一般には、その危惧を理解することができる。

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2007年5月18日 (金)

召命の拒否

「主の言葉がアミッタイの子ヨナに臨んで言った、『立って、あの大きな町ニネベに行き、これに向かって呼ばわれ。彼らの悪が私の前に上ってきたからである』。しかしヨナは主の前を離れてタルシシへのがれようと、立ってヨッパに下って行った」(ヨナ書1・1-3)。

 ベルジャーエフにとっては神の言葉に従うこと、それが創造活動なのである。ヨナは創造活動の使命を拒否した。その結果、彼は大いなる魚の中へ入れられ、行き詰まり、そして祈った。

「わたしは悩みのうちから主に呼ばわると、主は私に答えられた。わたしが陰府の腹の中から呼ぶと、あなたはわたしの声を聞かれた。あなたは私を淵の中、海のまん中に投げ入れられた。大水はわたしをめぐり、あなたの波と大波は皆、わたしの上を越えて行った。わたしは言った、『わたしはあなたの前から追われてしまった。どうして再びあなたの聖なる宮を望みえ得ようか』。水がわたしをめぐって魂にまでおよび、淵はわたしを取り囲み、海草は山の根元でわたしの頭にまといついた。わたしは地に下り、地の貫の木はいつもわたしの上にあった。しかしわが神、主よ、あなたはわが命を穴から救いあげられた。わが魂がわたしのうちに弱っているとき、私は主をおぼえ、わたしの祈りはあなたに至り、あなたの聖なる宮に達した。むなしい偶像に心を寄せる者はそのまことの忠節を捨てる。しかしわたしは感謝の声をもって、あなたに犠牲をささげ、わたしの誓いをはたす。救いは主にある」(『ヨナ書』2・2-9)

 信仰を拒否する者、創造活動を拒否する者はついにここまで来てしまう。

 人間の側には不平等がある。その究極が二重予定である。この不平等を理由に、創造活動をはねつけてしまったら、どうなるだろうか。ヨナ書の現実が待っているのである。背信の理由の中には、もっともと思えるものもある。しかし、最後、命の危機の中で、そのような理屈は、その正体を暴露する。
 
 背信の理由を調べれば、それは神学的問題を哲学的理性で追究したためともいえる。その道は、その中に不信仰が隠されていれば、破滅につながる。

 人は、実存に現れる神を、「二重予定の神」として告発してはならない。創造活動は、その人間の内面的意識に真の価値を現すものである。彼はただその価値を受け取り、その価値にしがみつけば良い。それが信仰であり、創造活動であり、神は人間からそれを求められるのである。

 自分を他の人間と比べたり、あるいは社会の不平等の故に創造活動を拒否する者にはヨナ書2章の嘆きが待っている。それ故に創造活動は人間の義務でもあり、又喜ばしい権利でもある。人間における成長に対する権利は失われてはならない。神は誕生させ、成長させる霊である。

 ベルジャーエフが創造活動を死に至るまで強調したのは、人間は誰でも本来的自己、自己自身になる権利があるのだと叫びたかったのであろう。現代社会になっても、その叫びは正に適切な叫びではないだろうか。

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実存的解釈

 創造活動は宗教的啓示を前提する。その限りで聖書の必要性を認める。しかし、聖書の非実存的解釈に対して、あくまでも実存の立場から解釈していく。創造活動は聖書理解を実存において受け取っていく。

 ベルジャーエフが教会から自己を区別するのはなぜか。それは教会には、彼の体験を、常に現世的な地上的な諸図式で翻訳してしまうからであろうか。ベルジャーエフはキリスト教の真理を語りつつ、なお教会的でないという、キリスト教に対する矛盾した態度はこのように説明されるかと思う。

 彼は聖書服従主義ではあるが、聖書隷従主義ではない。聖書の哲学的実存的理解の立場であって、科学的実証的理解の立場ではない。人間は何か客観的権威が成立すると、すぐそれに非実存的に結びつく。それは宗教的啓示としての聖書に関しても同様である。しかしベルジャーエフはそのような客観的権威なるものを正教徒らしく認めない。ただ、彼の認めるのは実存のうちに自由という道を通ってやってきた分断的でない、全一的な宗教的啓示のみである。

 ベルジャーエフは媒介的な教科書的聖書研究を飛び越え、すぐ聖書の奥に、背後にある存在に参与する。実存的に参与する。そして、その参与において、聖書を意味として自己のうちに具体的に取り入れる。

 彼にとっては、まず人間の実存が最高に重要である。「神は実存する」という彼の言葉は、実存である主体の彼方にのみ神が可能なのであって、存在である人間には神は現れたまわないという意味であろう。その点で、理論理性ではなく、実践理性の彼方に神を見ようとしたカントの立場に類似している。

 西方教会の中に、ベルジャーエフのような人はいなかったのではないだろうか。ドグマを重視する立場からは、彼の教えを、そのまま受け入れることも困難かも知れない。しかし、解釈を付して、受け入れることはできる。そのような受容があれば、教会は内的に更に豊かなものになっていくだろうと思う。

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聖霊の賜物

第一コリントの12章に聖霊の賜物についての記述がある。事実、そういうことがあったのだろう。そしてペンテコステ系の教会であれば、その個所を強調し、そういう賜物を得るように信徒を指導するのだろう。

そこでは異言の賜物を得るような指導があるのかも知れない。新生の時にも異言がある、なければならないとする指導だと、それは極端に思える。ペンテコステ系の教会で、そういう主張が、あるいはあるのかも知れない。

聖化の段階での異言に関しては、聖書で「ある」というのだから、否定はできないかも知れない。しかし、「あの時はあったけれど、今はもう必要ないので、ない」という説明で、真剣に受け止めていない、という解釈もあるだろう。

私は、ペンテコステ系教会の活動のインパクトを、もう一度、考え直すべきと思っている。それは、その立場になるというのではなくて、今の自分の立場で、どう受容したらいいかという問題である。

聖書が聖霊の賜物について記しているのは、とても意味のあることだと思う。それは、聖化の中の聖霊の働きについて、注意せよ、という促しと、私は受け止めている。

ペンテコステ系教会と同じ理解でなくとも、また、コリント教会と同じ働きにあずかっていなくとも、聖霊は、今、どういう形で働かれるのだろうか、そういうことを自分なりに、きちんと整理しておく必要性は認めている。そこには、不可避的に解釈が入るだろう。しかし、それは聖書の記述を尊重しているという意味であって、否定してはいないという意味を込めているのである。同時に、「今は、ない」という姿勢でもない。

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疎外された人間

 実存主義は常に疎外された人間から出発する。「憂鬱」「孤独」など、世界からはみ出している人間が真に自己自身になりたいと願ってなす闘争が実存主義である。

 実存とは生の中に死を発見することである。日常生活では死は隠され、人間の支配下にあるすべては人間によって価値づけられ、意味付けられる。人間の役に立つように組み換えられている。しかし、このような日常生活の破られる時が来る。人間の根底に深淵が開けて来て、それまで役に立っていたものが役に立たなくなる時が来る。虚無が人間存在の根底から昇ってきて、人間全体を包んでしまう時、懐疑がデカルト的な方法的懐疑ではなくして、絶望的懐疑、人間全体を圧倒するような懐疑になる時、その時はじめて実存がわかる。

 「人間は疑惑や分裂や苦悩の段階を貫き通ってこなければならない。そして人間はこれらすべてを超克してはじめてで霊的(精神的)に鍛えあげられ、霊性のより高い段階に達する準備ができたというものである。ドストエフスキーは自分の信仰が無神論者どもが浅薄のためにまったく考えも及ばないところの、苦悩の地獄を通ってきたものであることを好んでくり返し告白している」(『神と人間の実存的弁証法』)と、ベルジャーエフはいう。苦悩の地獄を通ってきた者を世界を必要とする。世界は彼によって新しく意味付けられるのを待っている。

 「悪の痛ましい問題から逃れるために、人間は中立の圏内に逃げてみたいと思う。それはこのようにして神に対する自分の裏切りを隠蔽することを望んでいるわけである。けれども中立性というものは深みのないもので、まったく皮相にとどまる。悪魔は中立であるとすら言えよう。なんとなれば、悪魔が神の対立者であると思うのは誤解であるからである。神に対立する対極は神自身である。それは神の別な現象形態である。両極は相接触する(一致する)。この世の君主たる悪魔は中立の立場に逃避する」(『神と人間の実存的弁証法』)

 「神に対立する対極は神自身である」と言うが、こういう言葉は解釈を必要とする。中世から近世への以降の中で、また教派の関係において、対立の図式はあっても、共に、双方に義があった、そういう理解も在りうるのではないだろうか。

 しかし、人は決断しなければならない時もある。ヨナに神の声が聞こえた時、それは決断の時であり、中立はない。中立はナイン(否)を意味する。中立は、サタンの言い訳とも言える。そういう場面も、人間にはあるのである。

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2007年5月17日 (木)

日本人の実力

湯川秀樹は『原子と人間』の中で、「日本人はまだ本当の自分の能力を出し切ったという歴史的な経験はない」と言っている。日本人の能力は、まだまだ、という思いがあるのかも知れない。

確かに人間の潜在能力は大きいと思う。戦前に比べて、戦後の社会の方が社会としてはいいとは思うが、戦前の方が、あるいは大人物がいたかも知れない。社会はよくなっても、一人ひとりは能力の開花を前に散っていくことが多いように思う。

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神学者にあらず

 ベルジャーエフが、自分は神学者ではない、と主張しているのは、実存の意識の地平にやってこない客観的啓示を取り扱う意思はない、また啓示を客観化することによって生ずる権威づけが彼にとっては常に異質的なものに感じられたからであろう。神学者は、ある意味で科学的・客観的方法をもって啓示を取り扱う。これが学問の道である。しかし彼はただ自分の内に明らかにされた宗教的啓示に全力を挙げて応答していこうと覚悟するのである。そしてこの応答こそ、彼にとっては創造活動であった。

 彼の見解によれば、アダムの原罪によって人類全体を支配するようになった死の力、無化する力に対して、神は新しい、キリストに在る人間に世界を支配することではなくて、世界を創造することを求めている。「無からの創造」という神のわざに人間が参与することを求めている。われわれの言葉では、聖霊の働きの中で、それは行われると言ってもいいのだろう。

 肯定神学は支配的であるが、否定神学は創造的である。肯定神学では人間の実存の内に存在の究極的意味として開示される意味に加えて、相対的、社会的、歴史的な手段的意味しか持たないものも啓示の中に取り入れて尊重する。教会論にしても、教会の道具性には、手段性が付着している。しかし、否定神学は実存的であり、実存の中に意味を持たないものは、非終末論的であるとして片づけてしまうことができる。あくまで人間から出発する哲学は人間実存に意味として明確に関与していない啓示については語らない。

 彼は命題的啓示を受け取るというよりは、啓示そのものを受け取る。その一つなる全体的啓示によって内面にあらわされたものを、断言的に語り続ける。彼は命題的啓示の奥にある啓示そのものに向かうが故に、彼の主体は命題的啓示という場に生きている。そういう意味で彼は預言者的人格なのである。

 彼にとってはキリスト教は精神的革命であり、意識の深所における全面的な変化である。彼はその革命された意識でもって一生、夢を見続けてきた。彼の死後、発表された自叙伝には「夢と現実」という名前がついている。彼の夢は途方もないものである。そして極端を走っていた。預言でさえも、彼にとっては夢であった。彼はこの夢を見、夢を語り続けた。しかも、この夢は宗教的、客観的啓示によって決定されたものではなく、その現実を啓示から受け取りつつも自由な意識からの創造活動によるものであった。     

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肯定と否定

 さて、「一警官よりも権力のない」神は果たして正しい神なのであろうか。

 形式的な論理学だけしか知らない伝道者は、このような神観に対して夢中に反対するであろうが、信仰の真理、神観に関しては、バルトの有名な「ロマ書」の中で、彼が、天才的鋭さをもって描いているように、弁証法的に語られなければならないことを知っていれば、神は全能であるという命題が、その肯定神学的構造を背景にして、内的に確認されると同様に、神の否定神学的命題も、その正しさが承認されるであろう。

 なぜなら、神は概念で表すことが不可能だからである。神概念は絶えず神体験者の状況と相対して生まれるものだからである。「予言者の神経験に於て第一にその特色と感ぜられることは彼らが神の直前に立たしめられし実感を切実に持てることである。……神の永遠性や自立性は皆その根本的動機を神の現実的実感に持つのである。しからざれば神の永遠性や自立性につきて云々せんとすることすら無意義になってしまう」(『旧約神学の諸問題』浅野順一著、243頁)と言われている。

 救済史そのものだけを抽出した場合、そこに形式論理学的要素のあることを否定しない。そうでなかったならば、組織神学は成立しないであろう。しかし、問題を時の一点、すなわち現在に絞り、そこで神を感じる人間の認識を見るとき、そこで神を語る場合、救済史と世俗史の相互関係により、どうしても弁証法的に語られざるを得ないのではないだろうか。

 すなわち、このような状況から生まれた弁証法神学は、支配的な世俗主義への対決という意味で危機神学であり、ドストエフスキーの小説の持つような動力学的性格をもちつつ、正反対の概念同士を、その両概念の示す本体の内的・有機的一体性においてとらえることから、世俗に対してダイナミックな神の霊の流れの中に神の実在を圧倒的に伝達し、弁証していく宣教神学であろう。

 否定神学の求心的性格に創造活動が結びついている。その探求は神を概念としてではなく、あくまでキェルケゴールが発見したような実存的イデーとしてとらえ、それゆえに神話は不可欠であり、それによって人間の意識の隠された中心にまで入り込んでいく。ベルージャエフが否定神学をあくまで強調するのは肯定神学の外的性格を退け、否定神学的アプローチの中で、真理がつくる自由な共同体を求めているのだと思う。

 教会はあくまで、そのような共同体でなければならない。肯定神学の用語は外的であり、そして彼は、この外的性格のうちに自己の外なる非実存的権威に安住する富める人間たちに異質なものを嗅ぎ付けたのであろう。否定神学は、また革命的神秘主義ともつながっている。そしてこのような一連の言葉はベルージャエフのうちに有機的に統一されていて、彼はまさに現代の預言者として、そこに立っているのである。

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ロシア無神論

ロシア的無神論の原点に、神学問題があったことをベルジャーエフは明確の後世に伝えている。

「『私はあなたの哲学者のガウンを尊敬する』とベリンスキーはヘーゲルに対して述べる、『しかし私は次のようにあなたに告げること光栄とする--たとい発展のはしごの最上段まで、よじのぼることを許されたとしても、そこでもなお私は私の生活と歴史とのさまざまな状況の犠牲になったすべての人々、偶然、迷信、異端審問、フィリップ二世、等々の犠牲になった人々について、はっきりした説明をしてくれと要求するだろう。それが聞かれないなら私はその最上段からまっさかさまに跳び降りてしまうつもりだ。私は私の血をわけた兄弟たち、私の骨を骨とし、私の肉を肉とする人々について心の平和が得られない限り、たとい贈り物としてでも幸福など欲しくない。不調和とは調和の一状態であるとひとは言う。たぶん音楽好きにはそれは愉快な、なぐさめになる言葉だろうが、自分の経験の上で不調和を奏でる役割を運命から授かった連中にとっては、あまり愉快にも慰めにもならないだろう。』これらの言葉はその後のロシアの問題にとってきわめて重要である。ここには悪の問題、苦悩の正当化の問題等、根本的にロシア的な問題であり、ロシア的無神論の根源となった問題が提起されている」(『ロシア共産主義の歴史と意味』ベルジャーエフ著)

こういう問題は西洋の神学の中では、余り、深刻な問題として提起されてこなかったのではないだろうか。また、ベルジャーエフのキリスト教理解の中で、どういうかたちで反映しているのか、それには関心がある。

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ロシア的実存主義

 ベルジャーエフは、実存から出発する。しかし彼の実存主義は、キェルケゴール、ヤスパース、ハイデッガー、サルトルなどとは違うという。ベルジャーエフによれば、ロシア人は非常に極端であり、矛盾している。彼らにとっては中庸の道はなく、常に正統か異端かのどちらかである。ロシア人は懐疑派ではない。彼らは独断家である。彼らの間では、すべてが宗教的性格を帯びる。彼らは相対的なものには、ほとんど理解がない。ベルジャーエフは、このロシアの子である。

 彼の哲学は非常に具体的である。それは常に自己自身の実存の意識から哲学しているという意味である。非人間的なる時代思潮に対して正邪を決定していく作品群は純粋な学問としての理論理性の所産というよりも、強力な実践理性の所産である。

 彼の実存主義は非常に極端に走る。キェルケゴールがイロニーで語った真理を彼はそのまま率直に語る。それは革命に通じている。彼が最初に受け入れたマルクス主義では政治的革命、のちの立場となったキリスト教では精神の革命が構想されている。

 ロシアは政治的な共産主義革命を遂行したが、「人間主義は内的実存的弁証法の力によって反人間主義に転化する。人間の自己主張は結局人間の否定になる。ロシアではこの人間主義の弁証法の終局は共産主義であった」(『ロシア思想史』)という。そして今、この共産主義革命で出来た国はなくなってしまった。

 彼にとっては哲学は闘争であった。青年時代、マルクスを師とした彼は、マルクスとともに、「哲学は世界を解釈するだけではなく、世界を変革しなければならない」と告白しつづけた。彼の哲学は、生涯そのような革命の哲学であった。

 彼は自ら回心を知らないと言っているが、偉大な宇宙的回心を構想している。人間は政治的革命か精神的革命か、そのどちらかを選ばなければならない。彼はそういった緊張した意識を持っている。彼の生きた時代は、そういう時代であったのだろう。

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実存主義の時代

 昭和40年代は大学紛争の時代であった。そのころ、哲学界では実存主義が流行していた。どの大学でも哲学の授業で実存主義を扱わないところはないといった状況があった。

 実存主義案内の本を書店で多く見かけた。そこには、ニーチェ、キェルケゴール、ヤスパース、ハイデッガー、サルトル、マルセルなどは必ず出てくるが、どうしたことか、ベルジャーエフの名前はなかなか見当たらなかった。

 おそらく、ベルジャーエフの思想があまりにも終末論的すぎて、キリスト教の前理解を欠く日本の哲学界が自らの関心事としてベルジャーエフを受け入れる余地があまりにも少ないか、または彼の根本的主張があまりにも単純で明快であるために、難解性を好む哲学者たちの肌に合わないためかともと思った。

 ただ、ハイネマンの『実存主義、その生けるものと死せるもの』には、神秘主義的アナーキストとして、ベルジャーエフが登場していた。そこではベルジャーエフの哲学は常に傍系であると紹介されていた。しかし、彼の実存主義は、私としては、ロシア的精神構造の中で展開されていて、興味深く感じられた。

 『実存主義案内』(E.ムーニエ著)という著書があった。「哲学の使命は事実、絶望を伝えることではない」と言われていた。確かに、実存主義は、限界状況について語るなど暗い状況を対象にしているが、絶望は、根本的には絶望を超えた人たちによって伝えられ、その超えることで、実は希望が伝えられているのだと思う。ムーニエは、またこの本で「厳密に言えば、実存主義的でない哲学なぞというものはないのである」ともいうが、同感である。しかし、今、哲学は実存主義といっても、多くの人たちは振り向かないであろう。

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好景気

好景気 遅れまいとて 投資熱
 感染病は 今日も猛威か

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2007年5月16日 (水)

創造活動しての哲学

 ベルジャーエフの哲学は完全に人間中心主義である。しかし、この場合の「人間」とは西洋的な神(「霊」)との対立概念としての「肉」としての人間を意味しているのではなく、神の像を土台として神の似姿を受け止めていく、霊的体験によって開かれた人間の最も深い、それまで全く未知であった意識の活動に焦点を合わせる人間中心主義である。この点からベルジャーエフの哲学は人格主義哲学であるとも言える。また、バルト的神中心主義とは宗教的啓示の「科学性」を強調するか、「哲学性」を強調するかの相違であって、互いに共通なものがあると思われる。換言すれば、聖化における哲学、霊的人間の行う哲学とでも言えるであろうか。

 実際、ベルジャーエフは「ところで預言は神秘的であって、時間的な決定とはなんの関係もなく、また必然性の範疇による知識ではどうしようもない」(『人間の運命』328頁)とか、「しかし神の国はたんに待望されるだけのものではなく、また創造されるべきものである。終末論的意識は人間意識の深い変化を前提とする」(『わが生涯』282頁)といって、宗教的啓示を完全に、心理主義的ではないところの内奥的意識の現実としてとらえており、その人間の主体的参与を無視した啓示の科学的客観性に関しては全く沈黙している。

 ベルジャーエフは哲学的認識は「人間のうちに、人間を通して存在を知り、また人間のうちにおいて意味の問題を解決しようとする」ものであるといいう(『人間の運命』24頁)。それゆえに彼にとっては、哲学とは「精神」ないし「霊」を存在と考える精神の学を意味するのである。「哲学は絶対に客体化されない認識、すなわち精神を精神のうちにおいてあるがままに認める認識、精神を自然のうちに客体化しない認識」(『人間の運命』25頁)。というベルジャーエフにおいて、哲学とはまさに創造活動そのものなのである。

 我々は、この創造活動に対する情熱の中に、「私を一般の人たちの批判に引き渡さないで呉れ」というドストエフスキーの告白をベルジャーエフに発見できるに違いない。終生、哲学者であることを誇りに思い-しかし、この場合の哲学者とは過去の文献漁りばかりしていて、目が近視眼的になっている「過去の」哲学者ではなくて、ニーチェが「善悪の彼岸」(42-4)で描いているような、現実に根ざしつつ、未来への限りなき展望を与えるところの「未来の」哲学者を意味するであろう-、また、自らも哲学者であると自称していた彼は創造活動を絶えず中心に置いていた。「創造のテーマ、人間の創造的使命のテーマは、私の生涯の基礎的テーマである」(『わが生涯』284頁)と言っているように、彼には創造という観念が常に念頭にあったのである。

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啓示からの哲学的認識

 ベルジャーエフにとって、哲学はすなわち創造活動を意味する。彼は次のごとくにいう。「哲学は生のいとなみであるから、真の哲学的認識は霊的体験をその基礎としなければならない。正しい哲学者はつねに生の源泉にふれていなければならない。哲学者の認識体験は正に生の源泉から生まれ出るものなのである。この意味では、哲学的認識とはまさに『存在の謎と生命の神秘を明らかにするはたらき』といってもよいであろう。哲学的認識は存在のうちに輝き、またそのそとを明るく照らす光明であって、ヘーゲルが考えたように理念から存在をつくり出すことではない。こうして、存在が認識するものに自分の謎を明らかにするのは、宗教的啓示によるのであって、宗教的啓示がなければ哲学的認識もなりたたない。認識するものはこの啓示に対して目をつぶり、耳をふさぐことができない。またこの啓示を無視して、『哲学的認識は自律的なり』と主張することもできない」(『人間の運命』19頁)。

 すなわちここにおいて、ベルジャーエフは哲学的認識の基礎には霊的体験、宗教的啓示が不可欠であると明言している。「哲学はたんに学的認識によってのみならず、また、宗教的経験によっても霊感されねばならない」(『神と人間の実存的弁証法』)。また彼は次のようにもいう。「存在の神秘は、人間のうちに、また人間を通してのみ-すなわち霊的生活や霊的体験においてのみ-あらわれる。……哲学は『叡知を愛すること』であり、人間のうちに叡知を開示することであり、またわれわれが存在の意味にまで突入しようと創造的な努力を重ねることである」(『人間の運命』23頁)。

 ベルジャーエフは哲学を、人間のうちに、また人間を通してのみ与えられる認識であるという。「およそ方法とよびうる限り、私が可しとする唯一の方法は、実存的・人間中心的な・霊的・宗教的な方法である」(『神と人間の実存的弁証法』)。「実存主義哲学は主観的方法を用いて、人間のうちに、また人間を通じて、世界の認識を肯定しようとする。つまり、実存主義哲学は人間中心的なのである」(『愛と実存』22頁)。

 彼はこの方法に全く信頼している。「啓示を人間に伝えるために用いられる唯一の機関は人間をおいて他にないということは忘れられてはならない。モーゼも予言者たちも啓示を告げ、神人イエス・キリストも啓示を告げた。また、使徒たちも、聖徒たちも、神秘主義者も、聖会博士たちも、神学者たちも、キリスト教の哲学者たちもすべて啓示を告げた。われわれは神のみ言葉の他は聴かなかった。そして、われわれが心の中で神のみ言葉を聴いたとき、われわれはそのみ言葉をわれわれ自身を通じて、つまり人間を通じて聴いたのである。啓示、即ち神のみ言葉はいつも人間を介して告げられた」(『真理とは何か』)。

 以上のように、ベルジャーエフにあっては哲学は宗教的啓示を不可欠に前提するのであるが、それも科学的思惟の対象としての宗教的啓示、すなわち人間の実存的理解とは無縁の、それ自身、客観性を強制する文献的事実としての、また、およそ科学的方法論で近づくことのできる宗教的啓示ではなくして、あくまで彼の内奥的意識における現実としての宗教的啓示である。「哲学と形而上学は客観的現実のかわりに実存において起こる諸変化を映すものであって、実存の意味を明らかにするものである」(『神と人間の実存的弁証法』)。「形而上学は存在の表現である」(『神と人間の実存的弁証法』)という。

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解釈

過去のこと 変えるわけには いかないが
 解釈変わる それを求めて

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人間とは何か

人間とは理性的動物と言われる。一応、そうだと思う。

では、理性的とは何か。カントが三つの批判書を書いたのは、知・情・意に即していたそうである。純粋理性批判は知に対するもの、実践理性批判は意に対するもの、判断力批判は情に対するものらしい。理性は知ではないのである。しかし、一般的には知と思われているかも知れない。

ウェスレーの「神共にいますことが最もよいこと」を思う時、ウェスレーの価値は情にあるように思う。信仰義認のルターは意に対応するのかも知れない。そして、知とは、福音の宣教なのだろうが、カルビンは、その面に対応しているかも知れない。カルビニストの本は知的と思うことが多い。

知から意を経て情に至るのが救いの順序である。人は、まず知から始まる。福音を知ることから始まる。意は信仰で、信仰において対応し、その結果、情としての恵みの体験に至るのである。

人間が理性的動物というのは、知性的動物というのではなくて、動物の中で、知・情・意の三者の関係において存在している、その関係を理性という言葉で表現しているのではないだろうか。

それにしても、ドイツ観念論は、本質はキリスト教哲学であると思う。しかし、キリスト教哲学としては、日本では余り紹介されていないかも知れない。

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二重予定説をめぐって

『コミュニケーションと宗教』(小田垣雅也著、創文社)の第5章「デモクラシーと絶対無」の中に、「宗教改革の政治思想的意味」という項目があります。二重予定説と資本主義との関係について、ウェーバーの著書『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』への疑問を呈しています。自分も同じ疑問を持っていました。

二重予定説というのは絶対なのであり、富の蓄積が自分が救いへ予定されていることの確証になるのでも、それによって救いの予定の確証が得られるのでもないと、基本的には、そう思いますが、この二つが架橋されていて、資本主義への動機が強烈なものとなったのかも知れません。その架橋の部分が分からないのです。

もし、富の蓄積が救いの条件になるとしたら、それはルターの信仰義認とまっこうから対立する行為義認であり、ペラギウスの異端の教えそのものではないでしょうか。

なぜ、二重予定説が資本主義への動機となるのだろうか、これはウェーバーの著書を読んでいて、疑問に思っていましたが、他にも同じような人がいることを知って、私の疑問は自分だけの疑問でないことを知りました。

さて、二重予定を言うのですから、カルビニズムの信仰なのでしょう。その信仰には五つの特質があり、「聖徒の保持」の考え方もあります。これは確証の現在的認識であり、それを否定していたのがアルミニウス主義者らでした。救いの確証を求めて富の蓄積に走るという動機は、どうして生まれたのだろうかと思います。

救いの確証を富の蓄積に求めるというのは、やはりおかしな論理だと思います。

聖定のもとに予定がありますが、予定は人間には分からないのではないでしょうか。予定のもとにある義認も分からない。しかし、神の側の義認は人間の側の再生・新生によって、人間の側に伝えられます。

従って、確証は、再生・新生から、その原因として、義認、予定と考えていくしかないのだと思います。

信仰生活の中で、不安、疑いが起きるかも知れません。その時、もし、救いの確証を求めるのであれば、それは再生・新生のあとのプロセスである聖化の中にこそ求めるべきと思います。聖化における聖霊の満たしこそ、確証のためには求められるべきことと思います。そこには、確証に対する不安、疑いは消えているのですから。

ただ、そのようなキリスト者のエートスが、当時の生活様式が、資本主義的な生き方として世俗社会に浸透して行ったとは考えられることです。しかし、キリスト者が自分の救い、予定の確証を富の蓄積に求めたというのは、どう考えても分かりません。

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2007年5月15日 (火)

創造活動と回想

 我々は回想の持つ不思議な魅力を知っている。過去の事実が回想において全く自発的に蘇ってくるのは、そして現在を照らし、また現在に新しい意味を加えるのは、我々にとって非常な驚きである。過去は死んではいない、過去は生きているのだと、考えたくもなる。

 しかし、そのような断片的回想は一つの究極的意味によって結合されなければならない。ベルジャーエフは、自分自身の過去を回想して、『わが生涯』を書き、人類の過去を回想して、『歴史の意味』を書いた。それは回想が創造活動に結びついているがゆえに、ベルジャーエフにとっては必然であったとも言えよう

 ベルジャーエフは過去の客観的事実の採集に専心する学者というよりは、その学者の得た知識によって、自分の主観を語る詩人のごとき存在である。この主観性が彼にあっては西欧的な宗教的客観性に深い影響を与えている。それゆえに、彼は精神世界の巨人としての姿を、我々の前に現している。

 また、この主観性の中に、彼は歴史の精神的意味を終末論的に解釈していき、まさに永遠の青年としての若さを我々の前に示すのである。そして、彼は、この作業を預言であると考えている。それゆえに、預言とは未来予知ではなくて、我々に理解できる言葉であり、現在の我々に決断を迫る言葉である。彼は常に哲学的人間学から出発するからである。

 その預言の中心はイエス・キリストである。それは史的イエスではなく、ケリュグマのキリストである。それはまた、「預言」という言葉への解釈かも知れない。

 そこには非神話化への批判もあるかもしれない。しかし、非神話化の非難の根本は、あやふやな存在論に対する認識論の優先へのそれであって、真実の存在そのものにぶつかった場合には、人はその伝達として、どうしても理性とのなんらかの結びつきを考えていかなければならないのではないだろうか。

 ベルジャーエフにあっては、この預言活動こそ創造活動である。そして、この創造活動は時間の征服である。それは時間が実存に従属しているからである。「時間は諸実在や本質や実存が変化することによって生み出されるのであって、その逆ではない。それゆえに時間は克服され、超えられるのである」(『孤独と愛と社会』146頁)という。このような言葉はいかにして理解されるのであろうか。

 大衆にあっては、そして客体化された人間にあっては、時間が優先し、時間が彼らを決定する。それゆえに彼らは可見的変化にのみ敏感であり、その原因である内的・不可見的実存の出来事には目を向けない。しかし、歴史の可見性は、この実存の出来事の現象であって、それゆえにこの実存の出来事の中心に認識主体の位置する預言者的精神にとっては、現象としての歴史は有意味的に把握され、また歴史の未来展望が開けてくる。

 ベルジャーエフはこのような預言者的精神であった。「私には、私の祖国ならびに全宇宙の破局的時節に生きるという運命が下された」(『わが生涯』9頁)と言っているように、彼はまさにカイロスに生きた人間なのであり、彼はこのカイロスにあって、時間を永遠にするため、生涯戦ったのである。

 では回想の創造的意味はどこにあるのだろうか。実存主義は深い意味での人間中心主義であり、そこでは現在の私が中心である。そして、過去と未来を現在の私を中心にして結びつけていく。この過去を現在の私とどのように結びつけるか、その結びつけ方によって、その人間の未来は決定されていく。創造活動とはこの結びつけ方を永遠化する作業である。それゆえに創造活動には神との交わり、霊的実在と触れ合うことが前提されていなければならない。この霊的実在の中にあって、自己を時間的・空間的に開き続けていく実存的態度の中にこそ、創造活動は可能である。創造活動はそれゆえに、過去を、自然科学的にではなくて、精神科学的に、不断に、新たに意味づけしていく作業である。歴史に投影された人間の不信仰を信仰によって、新しく意味づけしていくことである。そして、この作業の中に、実存的過去が究極的意味連関の一つの鎖として現在によみがえってくる。これが回想である。

 回想は受動的であると同時に能動的である。回想は、過去が現在に侵入することであるが、同時に過去の選択は、現在の実存によって決定される。「記憶は能動的である」「記憶はふるいわけを遂行する」(『わが生涯』8頁)とは、その意味でなければならない。この能動的記憶から創造活動が始まる。創造活動は人間がそこから追放された楽園の記憶がなければ成立しない、創造活動は一貫してこの楽園を自己のうちに実現して、それから社会、世界に向かって、その記憶を呼び戻せ、と訴え続ける働きである。

 ベルジャーエフは人間の原罪をそんなに重く見ない。原罪のゆえに人間は偉大だという。彼は人間に対する確信に満ちあふれている。原罪による神との断絶を絶望的にとらえない。そこに福音を聞くことによる信仰を、われわれは挿入する。その時、古い記憶が生まれてくる。こうして、記憶こそは、そしてこの記憶による創造活動こそは、人間回復の唯一の道となる。

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神の権力

 ベルージャエフはこの歴史の場にあっては、神とサタンの二元論を強調する。そして、ニコラウス・クザーヌスの「無知の知」すなわち「反対の一致」によって、彼は神を全能の位から「一警官よりも権力がない」(『わが生涯』238頁)地位に落としている。

 人間の運命の悲劇性というのは、歴史のどの断面をとっても、必ず救済史と世俗史という原理的に異なる運動が見られるということであり、その中で宗教的用語は、その両運動の中で、受け取る人々の背景にある論理性の枠において受容される。それゆえに救済史における終末論的真理の宣言は、世俗史においても、その反映を見せるに違いない。

 「実存」とは、まさにそのような言葉であった。キリスト教的実存主義が将来に待ち望むイエス・キリストの再臨の時は、以上の論理からして、また同時に「反キリスト」の時への待望として、世俗史の中では作用するのかも知れない。

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神人性

 創造活動は神の活動であると同時に人間の活動であり、この人間の活動であるというところに創造活動の哲学性があり、神の活動であるというところに、それが哲学の本来的目的を実現しているという性格がある。それゆえにベルージャエフにとっては、この両要素は切り離せないものであって、彼はこれを神人性という。

 「われわれにとっての根本問題は、神の問題ではない、むしろ神人および神的人間性の問題である。かかる神人性を離れて神を主張することは、抽象的一神論であって、これは偶像崇拝の一種にすぎない」(『愛と実存』37頁)

ベルージャエフはこの神人性の強調において、啓示が実存的に理解されなければならないと言っている。人間の実存的意識のうちに、「意味として」理解、了解され得ない啓示の主体とは抽象的な神にすぎず、そのような立場は抽象的一神論であり、偶像崇拝の一種にすぎないという。

 これは受け止め方によっては教会に対する非常に鋭い挑戦ではないだろうか。反発もあるかも知れない。あるいは、神を論じる人たちにとっての盲点になるかも知れない。

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実存的・終末論的哲学

 ベルジャーエフの哲学は徹底的に実存的であるがゆえに深刻であり、またその哲学は徹底的にキリスト教的であるがゆえに意味深いものでもある。

 ベルジャーエフ哲学の特徴の一つは、ロシア無神論における良心の契機を知り、そのような無神論にある深くて高い何かを認めている点であろう。彼は、そのような無神論者を尊敬すると言っているが、彼の哲学はこの無神論における良心の契機に光を当てる程に深刻であり、かつ「異端的」であった。

 「異端的」とは、ロシア無神論哲学の中にキリスト教的要素が混入されているなど思いもよらないであろうという意味を込めている。ちょうど、明治国家神道の中に、そして平田神道の中にキリスト教の影響があったという事実が、それらにおいては「異端的思想」であろうと思われるに等しい。

 しかし、また同時に彼の哲学は、これほどまでに存在の意味に、存在そのものに自己を結びつけているのであって、見方を変えれば、彼は異端どころか、正統中の正統と胸を張ることもできるだろう。

 ベルジャーエフの立場は徹底的に終末論的である。

 O.クルマンは、その名著『キリストと時』において、「徹底的終末論」を、キリストの出来事を、その本質において正しく把握していないということで、反駁している。それは、実存が無意味にならないように、本質を反省せよという声である。しかし、このような反省は、少なくともベルジャーエフにはあてはまらない。

 キリスト教実存主義哲学は、ユダヤ教や共産主義や無神論的実存主義のように、時の中心が未来にあって、その時の中心を実力で勝ち取ろうというような、クルマンが、そのようなものとして反駁する徹底的終末論とは違う。菅氏も「ベルジャィエフの哲学は、イエス・キリストの啓示から出て又イエス・キリストの啓示に終る所の新しい宗教的哲学と云う事が出来よう」(廿世紀思想)と言われているように、本質に対する顧慮は背後に退いており、不可見化されてはいるが、確かにそこにあるのであり、隠されてはいるが、本質から始まって、本質に終わるという線に沿っている。

 ベルジャーエフの立場はクルマンが反駁する対象としての徹底的終末論ではなく、クルマンの言いたいことの全部を確認したうえで、それを不可見化した徹底的終末論である。

 

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乱読

 大学の二年生の頃であったろうか、大学図書館の本棚に、『神の国とセザルの国』という本を発見した私は、セザルとはカイザルのことなのかなと思いつつ、その本を手に取った。ページをめくっていくうちに、キリスト教の用語があって、親近感を覚えた。私はこの時、はじめてベルジャーエフという名前を知った。

 それからしばらくして菅円吉著『ベルジャエフ』を読み、神の三位一体に対するベルジャーエフの認識論的説明に興味を抱き、また同じ菅氏の廿世紀思想におけるベルジャーエフ紹介に感心したりした。

 菅氏の書物にはキリスト教知識が分かりやすく紹介されていて、また快いリズムがあった。それは認識主体が表現の背後に隠れてしまっている「学者的」客観主義から認識主体を表現の中に表していくという、言ってみればキリストの受肉のごとき、精神の自己外化の過程を、読者として感じ取ったのであろう。

 さて私はそれから、ベルジャーエフの本を次々に読んでいき、常に変わらない、彼の真理に対する情熱と、キリスト教信仰による哲学的認識に感激しつつ、『ロシア思想史』『わが生涯』に読みふけった。

 『ロシア思想史』は私にとって一つの驚きであり、ロシアに対して非常に大きな親しみを起こさせた本である。ロシア思想史上、著名な思想家に対する彼の直観、洞察、そして理論構成に情熱を傾け、熱にうかされたように、理想社会を求め続ける精神的巡礼としてのロシア・インテリゲンチャ、そこには雄大なロシアの美しい自然があった。そのぼんやりした自然の背後に存在の意味を明かすところの黙示的・形而上学的光の一点を目指して収束していく人々の姿が浮かんだ。私は、ベルジャーエフが、有名なロシア映画『シベリア物語』『石の花』で、雄弁に物語っているロシアの性格を哲学の分野で実に見事に表現していると、感心せざるを得なかった。

 最後に『わが生涯』を読んで、私は心の底まで、深い満足を味わった。これくらい率直な人がどこにいるだろうか。これくらい劇的な生涯を送った人がどこにいるだろうか。そしてこれくらい現代に生きる我々に、キリスト教信仰による実存的な哲学的認識への道を提供してくれる人は、どこにいるだろうか。

 私はこの哲学的自叙伝『わが生涯』を読んで、ベルジャーエフが私の中に定着したという意味で、それ以前のベルジャーエフ熱は、より静かに、そして、より堅実になっていったと思う。

 それまでは、ベルジャーエフの人格の秘密、その人間性の比類なき魅力のために、彼の著書を次々に読んでいったが、この『わが生涯』で、それらの要求は、一応満たされたように思った。

 哲学は一般に個人的なものであり、その人の個性が、その哲学に現れるものである。だが、ベルジャーエフの哲学は、とりわけ、この傾向が強い。主観的思想家になればなるほど、その哲学は個性的になるであろうが、しかしこの主観的思想家が、キェルケゴールの「瞬間」を自己の意識生活の中に持っているとき、それは、単なる主観にとどまらず、精神界において重要性を持つ客観性に転換する。

 そしてこのような主観的思想家を理解するには、彼がどんな人間であったかを知る必要がある。聖アウグスチヌスにしてもニーチェ、キェルケゴール、ベルジャーエフにしても、実存的思想家はその説以上に、その人間が問題である。それゆえに、彼らには『告白』、『この人を見よ』『我が著作活動の視点』、『わが生涯』と、何かの形で自分自身について語る必然性があるのである。

 『わが生涯』は、彼の「螺旋登攀眺望」の頂上での風景かも知れない。

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人物像

 『ロシア思想史』にはベルジャーエフの紹介があるので、それで彼がいかなる人間であったか、概略を知ろうと思う。

 「ニコライ・ベルジャエフ(1874~1948)は、今世紀のロシア最大の思想家である。彼の優れた思想は、西欧において極めて高く評価されている。彼の思想の分野は、文明批評、社会論、人間論、歴史哲学、宗教思想、ロシア思想に関するもの等、多方面にわたっている。彼は終始、パーソナリティに最高の価値をおく人格主義の立場をとる。そして、人間解放の悲劇、深い人類愛がその思想的基盤になっている。彼は、はじめ、人間解放を求めてマルキシズムに入ったが、マルキシズムは精神の自由を抑圧するとしてこれと訣別し、独自のキリスト教信仰に入った。この点も注目すべき事柄であろう。ベルジャエフの思想が特にわれわれに訴える点は、その迫力ある人間解放の大理想と、真の自由を求める強烈な探究心にほかならない。また、マルキシズムとキリスト教、ロシアと西欧の課題と身を以てとりくんだ情熱であろう。現在、人間性が過度に疎外され、精神の自由がともすれば見失われがちな時、また東西両陣営が緊張状態にある時、ベルジャエフの思想家としての地位は、極めて大なるものと考えられる」

 また『孤独と愛と社会』には次のように書かれてある。

 「ベルジャーエフの書いたものは量的にもすこぶる多く、個人の心霊の神秘的な深みから、現実的な共産主義批判まで、いいかえればヤーコプ・ベーメから、マルクス、レーニンまできわめて広汎な領域に及んでいるけれども、そこにはつねに求心的な一点があり、いつもそこが彫り返されて、そこから全視野に新しい波が送られてゆくという感じである。かれの思想家的性格は体系家ではなく、どこまでも問題探究者のそれである。問題探究者というのはひろくさまざまな問題を探究するという意味ではもちろんなく、つねに自分の問題を深く掘りさげてゆく態度をいうのである。かれの書いたものはどれを読んでも調子が似ていて、その上いくつかの主題が決まったように鳴りひびき、そうしたもののヴァリエーションの連続といった感じがする。しかしそこにはまた絶えざる前進と深化があるので、私はニーチェのある文章を、一批評家が評した美しい比喩を思いだす。それはスイスのセルベローニにある螺旋形の小径を登ってゆくのにたとえたもので、そこから見ると幾多の白い家々をめぐらせたコモの湖やレッコの湖などが見え、また北方の湖のかなたには雪をいただいた連峯が望まれ、しかもこれらの美しい眺望はその螺旋形の小径をのぼるにつれて、同じ眺めではあるが、しかもつねに新しく魅惑的な風景をくりひろげるというのである。ベルジャーエフの著作に接するごとにそうした感興をおぼえる」

 『神への認識』『宗教』を読んで、私は、その明瞭かつ適切な説明とその背後にある主体の一貫した信仰的態度に大いに感銘を受けたが、その著者である菅円吉氏は、まだ日本において、ほとんどベルジャーエフが紹介されていなかったころ、「廿世紀思想」で、ベルジャーエフを紹介した。そこには「ニコライ・ベルジャィエフ(Nikolai Berdiajew)の哲学思想は、現代哲学の中に於て最も特色あり、最も深刻にして且つ最も意味あるものの一つとして、既に欧米の識者の間に注意されつゝある」と書かれている。

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2007年5月14日 (月)

病気の利益

病得て 死を思う時 与えられ
 限界を知り 実存となり

実存は 救い求める 心なり
 福音知らば 救いは近し

復活の 命を得れば 死の床に
 感謝溢れて 死の時知らず

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ソボルノースチ

 ベルジャーエフと内村鑑三とは、前者が哲学的、後者が科学的である点で違いがある。しかし、二人とも詩人であった、と私は思う。また両者とも自由と独立を重んじ、預言者的であった。ベルジャーエフの終末論的キリスト教と内村鑑三の無教会も似ている。

 無教会は、内村鑑三の宣教師との衝突から生まれたプロテスタント教会における派生的現象であるなどと言ってはいけない。現代にあって、実存主義が最も親近感を覚えるキリスト教形態は無教会であると思う。また、無教会は個人主義的、ひとりよがりのキリスト教と言ってはいけない。救済史の側面からは、もっと積極的かつ重大な要素を持っている。

 無教会は、ロシア教会の「ソボルノースチ」と同じ理念を持っている。両方とも、教会の本質そのものである。ベルジャーエフはソボルノースチについて、次のように説明する。

 「ロシア教会の集り(ソボルノースチ)は、司教会議や公会議、その他いかなる権威をも認めず、ひたすら聖霊と信者との愛による交りを目的とするものである。国家や社会には、外面的なしるしが存在するものである。ところが、ソボルノースチには、このようなしるしは存在しない。ソボルノースチは、まさに聖霊の秘蹟的生活である」(『愛と実存』138頁)

 内村鑑三が無教会主義で主張したかったのは、まさにこのソボルノースチなのではないだろうか。内村鑑三は死後、自分の聖書研究会を解散させた。彼は外面的なしるしの存続を認めたくなかった。いや、生前、それを考えていたのだが、結果的には集会の解散ということになった。何か示唆的である。

 ソボルノースチの言葉は、ベルジャーエフの著書に出てくる。しかし、余り、注目されて来なかったように思う。関心を寄せる前提が、日本人キリスト者にないからなのだろうか。

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塚本虎二論

内村鑑三と塚本虎二との関係は、きちんと整理しておいた方がいいと思う。塚本は自分でも自覚していたように、、内村の一部である。しかし、内村には、別の要素があった。彼の方が複眼であり、状況感覚豊かであったと思う。

内村は無教会が分派的存在になることを嫌った。しかし、塚本のやり方では分派的になるだろうと思う。

制度、組織などを教会から排除することはできないだろう。カトリックもプロテスタトンも、それはできない。

その時、それらのない在り方でも救いはあるのだ、という主張なら、なにも問題はないのだろうが、それらがあるのは間違っていると言い出せば、反発を買うに違いない。

教派主義への課題は教会も共有しているのである。しかし、塚本の教会批判の中には、ただ、制度・組織などがいけないというだけで、教派主義への批判が弱いように思う。

塚本の、組織、制度への批判に、もう一つ、共感が覚えられないのは、教派主義への批判、そして教派は教会なのか、といった問題提起が欠けていたから、と思う。ていねいに説明すれば、教会人の関心を得ることは、そんなに難しいことではないと思う。

いずれにしても、塚本虎二論というものは、無教会論をどう構築するかと無関係ではないと思う。

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2007年5月13日 (日)

内村鑑三の遺言

無教会の藤井武は、内村鑑三の亡くなった昭和5年の7月に亡くなりましたが、その月に「亡びよ」という詩を書いています。その中に、こんな言葉があります。「『こんな国に何の未練もなく往ったと言ってくれ』と遺言した私の恩師の心情に私は熱涙をもって無条件に同感する」。恩師と言うのは、内村鑑三のことです。内村にはこんな遺言があったのでしょうか。「二つのJ」の一つは日本です。その日本に対して、こういう言葉を残したのでしょうか。

実は、塚本虎二にも、そのようなことを記した個所があります。「『俺が死んだら、内村はこんな国には少しの未練も有たずに死んだといってくれ』と言った先生を、…」(『内村鑑三先生と私』塚本虎二著、伊藤節書房、141頁)。これは昭和19年3月に発表された「私の先生」という文章の中にあるようです。

臨終の時の遺言は、よく知られていますが、内村には、こういう一面もあったのでしょう。それが、どういう経緯で語られたものか、それは分かりません。

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創造活動による義認

 ベルジャーエフの創造活動の強調は、ロシア国民の置かれた物理的かつ精神的な自然的諸力に対して、ともすれば潜行しがちな彼岸性による挑戦ではなかったのだろうか。それゆえに彼は創造活動が人間を義認するとまで言ったのではないだろうか。この義認は、あの「信仰義認」の「義認」ではないであろうけれど。

 「創造活動による義認」と言う言い方は、確かに生成を重んじる実存主義キリスト教にふさわしいと思える。プロテスタント・キリスト教においては義認は活動でも行為でもなく、ただ、イエス・キリストに対する信仰に結びついているのだということは自明である。このことは、一面、活動性を軽視するように見える。しかし、本来パウロにおいて、「信仰」とはその内に愛による行為をも含むものを意味し、ヤコブの言う「行為なき信仰」というような、信仰と行為を分けて考えているのではない。

 しかし、ベルジャーエフにあっては、その極端な能動性から、義認というような人間にとって最も重大な言葉を、例え本質的にはそうでないにしても、受動的な響きのある「信仰」という言葉に与えたくはなかったのではないだろうか。

 しかし、真の信仰義認は激しく終末論的性格をもつものである。それはベルジャーエフの創造活動を否定せず、かえってその基礎にある。否定神学的創造活動と肯定神学的信仰義認は、自己の本来的世界を、彼が現に今いる世界において、どの程度認めるかの量的違いであって、質的には共通しているものであると思える。それは人間に伝達したい宗教的なものを表現する際の不可欠の条件としての概念使用に伴う誤解を避けるために、敢えて別の概念を結合させることによって、伝えようとしているかに見える。

 神の名は「不思議」という(士師記13・18)。肯定神学的思索の中では、人間にとってはたしかに最適な神の名前ではなかろうか。

 さて、本来の信仰義認の教義は創造活動と同様に徹底的に終末論的性格のものであるが、終末論的信仰には、全き自己放棄と激しい精神的緊張が伴う。この終末論的信仰は、伝統的信仰義認の教義をそのまま意味するのではなくて、現にそこにいる人間の存在のあり方なのである。義認は聖化に移行しなければならない。創造活動も、その聖化の中において考えられなければならない。

 伝統的信仰義認の教義も最初は終末論的信仰を宿していたが、客体化、合理化されるに及び、歴史の垢の如きものとして、人間の不徹底を反映して、受動的、消極的に受け取られるようになったともいえるのではないだろうか。この垢が歴史を継続させ、人間を固定化せしめてゆく。

 ベルジャーエフの創造活動は、言ってみれば、この歴史の垢に対する挑戦であり、宗教的啓示に対する人間の全面的応答であり、まさに彼にあっては終末論的キリスト教の信仰告白である。

「人間の創造的活動はどんなものでも終末的な活動である。世界の終末を促進させるのに貢献している活動である」(『神と人間の実存的弁証法』)。

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憲法の話

日本国憲法の前文に、「…平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した」とあります。「われらの安全と生存を保持」というのは、日本の安全保障の問題でしょう。それを、どうするのか。

「平和を愛する諸国民」とは国連を意味するのでしょうか。日米安保条約も、また、その部分なのかも知れません。

そこで問題なのは、「平和を愛する」という条件です。国連は、一応、平和を希求する目的を持っています。米国も、そうなのでしょうか。そうなのでしょう。しかし、よく戦争をする国だと思います。しかし、「平和を愛する諸国民」の一部でなければ、日米安保条約は憲法が認めないということになるのでしょう。しかし、恐らく、憲法の保証を託す思いを表すのは、こういう書き方しか出来ないのかも知れません。

では、英国は、どうなのでしょうか。国教を持つということは、国家の保護を神に委ねているのでしょうか。

日本の憲法は理想主義的です。しかし、その理想実現の、信頼の相手が「平和を愛する諸国民」という個所に至って現実的になっており、同時に具体的には何を意味するのかという問題も起きると思います。

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マラナ・タ

世俗史の 中に流れる 実存史
 メシア待望 祈りは絶えず

メシアの到来(再臨)というのは、要するに、世俗史の中での出来事であり、世俗史の真の目的なのだろう。その目的意識を目覚めさせる主体が実存史であり、その働きなのかも知れない。宣教というものは個人対象に限るのは、どうなのだろうか。

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贖罪

贖罪は 連帯保証 裏書で
 信仰あれば 借金は消ゆ

宣教のメッセージというものは、人の自由意志に訴えるものでなければ、と思う。

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宗教思想

層薄き 宗教思想 深めれば
 日本の美また 輝かんかな

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ソボルノースチ

教会は 救いの道具 正教の
 ソボルノースチ それを目指すか

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井戸端会議

井戸端の 会議の今は ITか
 毎日のぞく 茶飲み話を

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2007年5月12日 (土)

学習の仕方

 ベルジャーエフはロシア・インテリゲンチャやロシアの巡礼に現れたロシア的骨格を精神に持ちつつ、西欧の教養を十分身につけている。彼はこと精神的な、思想的な領域に対しては驚くほど博識である。歴史的に重要な言葉を彼が別の意味に使っている場合もあり、少し考え込むこともある。解釈が必要だ。しかし、それは彼の有機的全体の一部分であり、全体の中でそれを見る時、ベルジャーエフの首尾一貫性をうかがうことができる。

 彼は懸命に学んだ。生涯学び続けた。情熱的に学び続けた。それは彼が他人の思想の中に自己を発見し続けたからであろう。

「私の諸能力は、本来の思考過程が私自身から発し、私が能動的で創造的な状態にあったときにはじめて、発現したのである。しかるに、受動的な習得、記憶的な操作が問題であったとき、つまり思考過程が私の外部にあったときには、私はいかなる能力も示すことができなかった。私はそもそもなにかを受動的に習得し、簡単にこころにとめて記憶しておくということは、とうていできなかったのである。私は特定の課題を課せられている人間の立場に身をおくということができなかった。それゆえ試験は私にはまったく我慢のならぬものであった。私は受動的に答えることができない。たちまちのうちに私自身の思想が湧きのぼってきて、それを展開させようとする衝動が私を襲うのである」(『わが生涯』29-30頁)。

 それゆえ、彼は徹頭徹尾、自己を語っているのである。キェルケゴールが主観的思想家と言われるように、またパウロ、内村鑑三が好んで自分を語る人であったごとく、彼もそのような人間である。

 しかも、そのような主観的思想家、好んで自分を語る人が、限りない影響力を持っていて、単に傍系として無視されえないのは、彼が人類の精神史に精通し、指導的な思想に深く内面的にかかわっていたからであろう。彼の哲学は、分離された部分の蓄積ではない。部分部分が有機的に関係付けられ、一つの生ける哲学になっている。だから彼の哲学はどの部分から入っても、直接全体を知ることができる。彼は常に存在の本源から哲学しているからである。それゆえ、彼の哲学が一つの宗教的使命を果たしているとも言えるであろう。

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ロシアの巡礼たち

 西欧社会では、そして日本でさえも、彼が『ロシア思想史』の中に描くロシア・インテリゲンチャ、そしてロシアの巡礼たちの姿は見られないのではなかろうか。

 「インテリゲンチャは理想主義的な階級であり、全く理想によって動かされ、自分達の理想のためには監獄、苦役、死をもいとわない人々の階級であった」
 「一体何がこの人々を感動させたのか。何人の霊感が彼等を再創造したのか。彼等は公の地位も、個人の利益も、身の安全も、一向に考えもせず、気にもかけなかった。彼等の全生命と全力は個人的利益を少しも顧慮することなく、ひたすら公共の善に捧げられた。彼等のある者は自己の富を忘れ、ある者は貧を忘れ、理論的問題の解決に向って休む暇なく前進する。真理と生命への関心、科学と芸術への関心、人間への関心が一切を呑み込んでしまう」
 「頭髪が灰色になっても、霊感は永遠に若い、この人々のような、私心なき思想への傾倒者、科学への献身者、自己の確信への熱狂的信奉者の群を、諸君は同時代の西欧のいずれの地域に認めるであろうか」

 そして彼は、ロシアの大自然を背景に精神的巡礼たちの姿を描く。

 「ロシア人はいつも他の生活、他の世界を渇望し、いつも既存のものに不満である」
 「巡礼は西欧では不可解なほど、特色のあるロシア的事象である。巡礼は広大なロシア国土を遍歴するが、決してどこかに定着したり、何かに執着したりしない。巡礼は真理を探求し、神の国を探求する。懸離れたものをめざして闘う。巡礼は地上には永住の都を持たず、来るべき都を目指して熱烈に前進する。人民大衆は常に自分達の階級から巡礼を生み出したが、ロシア文化の最も創造的な代表者達は精神的に巡礼であった。ゴーゴリ、ドストエフスキー、トルストイ、ソロヴィヨーフ、その他の革命的インテリゲンチャはみな巡礼であった。肉体の巡礼ばかりでなく精神の巡礼も存在する。精神の巡礼とは、有限なものには安息と平和を見出しがたいもの、無限をめざして闘うものである。しかし、この闘いもまた終末論的闘いであり、すべて有限なものは終って、究極の真理が啓示され未来には何か異常なものが生まれるという期待をもって待つ」。

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歴史への挑戦

 ベルジャーエフは歴史に対して常に挑戦している。

 では、歴史とは何か。実存主義哲学において問題にされる歴史とは単なる暦的時間の流れではなくて、人間の原罪から始まる罪と悪との必然性、悪しき無限である。この歴史を徹底的に否定すること、これが終末論的信仰である。「ただメシア的意識のみが歴史的なものを超克する」(『神と人間の実存的弁証法』)。

 彼はこの歴史に対する挑戦を意識の根源的変化に結びつけている。「終末論的意識は人間意識の深い変化を前提とする」(『わが生涯』)と言う。ここに主観的終末と客観的終末との区別が現れる。この場合の主観的、客観的の区別は確実性による区別ではなく、ただ個人的か、あるいは全体的かという区別である。実存主義キリスト教は生成を、運動を重んじるが故に、主観的終末の基盤に立って、まだ来ていない客観的終末に目を向ける。しかし、聖書はそれについて沈黙しており、ただ父だけが知っているという。

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創造活動とは

 認識は、分裂、主体・客体の分裂から出発する。しかし、ベルジャーエフのいう創造活動は主体と客体との一致が成立する現実の存在にその出発点を持っている。それは認識そのものが現実的であり、現実のうちにおいて行われることである。

 認識論は「認識の対象は認識の外部にあって、なんらかの形で認識に反映する」という考え方だ。しかし、霊的に理解された認識とは「それによって、また、そこにおいて、あるものを現実にもたらすはたらき」といえようか。だから、「創造」という言葉が使われるのだろう。

 認識の一次的段階は現実的であり、その現実に分裂が起こるとき、認識に客体化が起こってくる。創造活動とは、この一次的段階における認識に関係する。エデンの園、楽園追放、楽園への回帰、その各段階における認識とでも言えようか。

 創造活動の前提である現実の存在とは堕落した人間の理性によって合理化され、形を与えられた存在のことではなく、合理化以前の「根源的生」、まだ暗黒のうちにある存在のことを指す。この現実の存在の内での認識活動が内面的な創造活動(『人間の運命』292頁)であって、その場合には主体と客体が内的に連関し、認識は現実に即したものになり、「何か」etwas ものの本質を知ることを意味するのである。

 創造活動においては現実の世界は存在するのであり、主体・客体分裂の状態における認識のごとくに現実についての単なる概念だけが存在するのではない。

 西田幾多郎の純粋経験と、ベルジャーエフの創造活動を比較したら面白いと思う。

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正統と異端

正統は 権力結び 現れる
 違う権力 違う正統

かつて、北海道で開催された日本基督教学会で、正統と異端をテーマに議論された時があった。正統は客観的真理というよりも、権力との関係で言われるのではないか、そんな洞察があったように思う。

ルターの問題提起を思う時、それは正統教理であったけれど、どこかで、教皇の立場に関する見解が持ち出されて、そこで退けられたという一面があったのではないかと思う。

教皇は、ローマ教会の「権力」の中心なのだから、そこで異論が出れば、他の正統は顧みられなくなるし、それが歴史的に進行していったのだろう。

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民主主義の時代

 我々は今、民主主義の時代に生きている。戦前と比べ、よい時代になったと思い、戦後の価値体系を大切にしたいと思っている。その柱が民主主義である。この価値を守ろう、戦争の犠牲者たちを思う時、その覚悟は固い。

 戦争という実存的経験は、今やそれを土台としての開花期を迎えているようでもある。しかし、この民主主義の時代、人間尊重の時代もやはり客体化を免れてはいない。人間の自然的生の開花期にあって、人間の意識は実存から離れ、皮相的意識を中心化する。預言者的人格は不断に永遠との関係の中に生きるが故に、彼は客体化、相対化世界の時代的風潮に対して常に反発する。それは彼が時代を超越しているがゆえに、時代の本質そのものが可見化、対象化するためである。民主主義も又、被造物であり、それ故に被造物の生命を持っている。

 そんなに冷たいことを言いなさんな。人間が大切にされる時代、そのどこが悪いのであろうか。この思いは、当然であり、私の中にあっても、疑うことを許さない。しかし、民主主義の名のもとに、人が死んでいく。人知れず、自らの命を絶っていく自殺者の数は少なくない。悲劇はただ、知られていないだけなのではないだろうか。

 そこで、実存弁証法的な思考実験をして、この時代の診断をしてみるのも意味があるのではないだろうか。

 ベルジャーエフは「民主主義的年紀は市民化の年紀である。この年紀は強力な人格の登場に敵意をいだいている」(『わが生涯』82頁)という。

 民主主義の関心は、現世的・地上的・肉体的であり、換言すれば政治的関心が強い。ある意味では、平凡な日常性の時代でもあり、無感激の中に人間を徐々に固定化・有限化していく。それも生命の御名によってである。「強力な人格の登場に敵意をいだいている」時代であるかも知れない。確かに、そうかも知れない。それでも、逆に、小市民的幸福な時代に生きたいと願い人たちは多いと思う。私も、それに共感を覚える一人である。

 しかし、このような民主主義の年紀もやがて、人間の実存弁証法によって内部から崩壊し、終わるのではないだろうか。不気味な兆候は、生きることの意味の喪失である。それはやはり精神の透明性に対する魂の不透明性を中核にして主張する人間の内的実存弁証法によるのである。

 あらゆるカイロスには深い永遠との接触があった。しかし、そのようにして得られた価値や意味も、それによって人間が解放されていくプロセスにあって、自然的人間、非本来的人間の幸福が目的化されていく。此岸的人間が中心を占め、永遠は見失われていく。そして、やがて転換が起きる。これが実存弁証法である。ある客観的価値の質的変化がそれを担う人間の交代とともに起こる。それはマックス・ウェーバーの説く、プロテスタントティズムと資本主義との関係にそのよい例を得るだろう。

 ベルジャーエフは、民主主義の価値を余り認めていなかったのかも知れない。彼にとって、それは彼が常に否定していた日常性の支配する時代だからである。永遠の絶対的否定性、生きとし生けるものを、そのとたんに全く活動できなくしてしまう虚無の炎に対して、民主主義は冷たくあしらい、ごまかしてしまい、そこから時間と永遠に対する無知が支配し始める。しかし、永遠を知るなら、そのような民主主義は根本的に否定されて、人間は永遠の成就、実現のために献身するであろう。永遠を知るなら、民主主義の常識によっては否定され、忘れられ、葬られた価値は、再び復活し、歴史を究極的意味に向かって激しく導いていくであろう。

 現在は歴史全体から見れば、小休止であり、一つの谷間であるかも知れない。人間の創造活動が停滞し、目的を見失った時代であるかも知れない。しかし、このような時代にも客観的終末に向かって、実存史は流れ続けていく。意味を問え! 実存史は、現代に語りかけている。

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ロシアの実存哲学者

 私が大学の四年間に得た唯一の収穫はベルジャーエフの著作を読むことができたというのに尽きると思われる。当時は、白水社から著作集8巻が刊行されていた。

 私はベルジャーエフによってロシアを知り、彼の描くロシアに強い愛着をもつようになった。私はこれからロシアと言われたら、ベルジャーエフが情熱的に描くあのロシアを思うであろう。当時は、ロシアという国は、既に過去の国になっていて、ソビエトという国が地上に存在していた。しかし、世紀を越えて、今またもロシアという国が地上に存在し始めた。このロシアが、あのロシアなのかどうか、まだよく分からない。

 ベルジャーエフの博識、彼のキリスト教に対する確信、彼の霊的洞察の鋭さ、彼の読者をぐいぐいひきつけていく文体の力強さ、彼の描く世界の雄大さ、これらは全く青年を魅了してしまうものである。とくに神学と哲学の分離に対して抵抗を感じつつも、それらを結び付けているけれど、どこか他人行儀に見えた中世スコラ学になじめない人間にとって、道はまさに実存主義のうちにおける神学と哲学の結びつき方にあり、その典型が彼、ベルジャーエフであった。それは啓示による哲学であり、啓示の光による哲学の透明化であって、啓示以前の哲学ではない。

 ベルジャーエフは最後の最後まで哲学者であって神学者ではないという。それは啓示というものを常に実存のうちに与えられる意味と考えるからであり、この啓示を科学的、実証的に取り扱おうとは決してしないからである。彼にとっては正に人間こそ存在するすべてに意味を与える主体、小宇宙なのである。彼は存在の意味、人間の運命といった事柄に集中しているのであって、神学も、その問題に解決を与えてくれる啓示として交渉しているのであって、そのようなベルジャーエフの中心的関心ごとから離れた場所における神学の拘束力を無視している。それ故に彼は良い意味で聖書を非神話化しつつ、彼の生地であるロシア的理念に従って、改めて現代風に神話を作り上げるのである。

 私はベルジャーエフの中に露魂洋才を見る。そして、その露魂がひどく東洋的なのである。我々はベルジャーエフによって正に東洋の真髄を垣間見る感じがする。それは終末論的太陽の存在全体に対する輝きであり、それに対して、人間の一部である理性だけではなく、人間全体をもって迎え入れる構えである。

 ベルジャーエフの著作には非常に強い勝利意識と人格から発する哀愁の調べがある。『孤独と愛と社会』の冒頭の言葉は、現代において哲学者の存在は悲劇的である、という印象深い言葉であるが、これなどは、ドストエフスキーの『地下生活者の手記』の最初の言葉、「私は病人だ……私は意地悪な人間だ。魅力のない人間だ」を思い起こさせるものである。そして、この鋭い哀愁の調べこそ現代における人間の絆なのである。

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2007年5月11日 (金)

終末論的キリスト教

 ベルジャーエフは歴史的キリスト教の代わりに創造活動を強調する終末論的キリスト教を提唱する。それはなぜか。歴史的キリスト教が歴史と妥協しているからであり、この世の原理によって自分の家を作り、その家にあって自己満足に陥っているから、と言おうか。ベルジャーエフの終末論的キリスト教には家がない。あるのはただ創造的主体のみである。

 教会が歴史と妥協するとはどういうことであろうか。それは客観的終末(再臨)のカイロスを、未確定ということで、ある意味で、近くはないと、自ら決定していることである。現在と客観的終末のカイロスとの間に当然あるべき期間を前提している、その心の余裕を歴史的教会は持っている。しかしパウロには、そんな余裕はなかったのではないだろうか。自分が生きている間に、再臨があるという信仰がパウロの信仰ではなかったろうか。しかし、そういう意味では、パウロの信仰を、今、多くのキリスト者は持っていないのではないだろうか。残念ながら、私もまた、そこまでパウロ的、信仰的ではない。

 歴史的キリスト教は、客観的終末のカイロスは次の瞬間であるという意識を持ってはいない。しかし、原始キリスト教は、少なくとも、パウロは一貫して、この客観的終末のカイロスが次の瞬間であるとの信仰を告白しているのではないだろうか。

 この信仰告白こそ、また終末論的キリスト教の信仰告白でもあるのであろう。それは全き自己放棄を意味し、人間社会の中にありながら、その社会を支配している歴史性に対して非連続と分裂を引き起こすであろう。それは永遠の時間・歴史への突入を意味する。ベルジャーエフは彼の論文が急進的であると批判されたのを不審に思うほど終末論的であった。彼は恐れるところを知らず、自己の使命に忠実であった。デカルト的コギトの自己存在の確実性ではなくて、他界からの宗教的・超越的な確実性が彼の活動の原点であった。

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再臨の時

 人間には「いまだ」という客観的終末(再臨の時)については、そのカイロスを知ることが許されておらず、ただ「すでに」(初臨の時)というカイロスのみ知らされている。その初臨のカイロスは、聖霊降臨によって、常に現在の、主観的終末のカイロスの経験となっている。であるから、人間には、この主観的終末に徹底的に忠実であることだけが可能であり、その信仰告白がベルジャーエフにあっては創造活動なのである。だから、創造活動は聖化のうちにおける活動なのであろう。そして、そのような創造活動は客観的終末と無関係ではないと言っている。

 「歴史の終末は人間の創造的行為によっても左右される」「実際、キリストが再臨するためには、まずわれわれ人間がはげしい創造活動をいとなみ、この世と人類の終末に対して完全な準備をしておかなければならないであろう。この意味からいえば、終末はかえって人間の真の創造活動がおこなわれたとき来るとも、あるいは宇宙的過程がその積極的な結果をもたらしたとき訪れるともいうことができるであろう」(『人間の運命』574-5頁)。

 このような言葉を読む時、再臨の前提として福音宣教があるのだ、だから、福音宣教に努めることは再臨を速めることにつながるのだ、といった再臨論ともどこかでつながっているように思えるのである。

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白血球運動

宇宙という大いなる生命を浄化する不断の「白血球運動」に従事する、と自分の人生をたとえた人がいたという。その人の表現というのは、恐らく、「白血球運動」なのだろう。どこで、この言葉を使っているのか、知らないが、晩年、『宇宙の目的』を書いて、「宇宙悪」の研究に取り組んだ人である。

それにしても、「白血球運動」という言葉は、いろいろな連想を生む言葉と思う。

その人は誰か。

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賀川豊彦論

「賀川は、自分のイエス観が「イエスを人間の水準に引き下げ」る一種の冒涜であるという非難を一般のキリスト教徒から受けていることを認めながら、逆に彼らは「イエスの十字架と復活のみを説いて、人間的部分をかえりみない」と批判する(全1・318)。あくまでも「人間イエス」の模倣に徹しようとする賀川にとって、“神の子イエス・キリストの十字架上の死による人類の罪の贖い”という福音のみに安住しようとするキリスト教は、「きわめて理屈っぽい」教条主義的な宗教にすぎなかった」
(『近代日本キリスト者の信仰と倫理』鵜沼裕子著、聖学院大学出版会、154頁)

「全1・318」とは、賀川豊彦全集第1巻・318頁の意味。

引用個所を、どう理解したらいいのだろうか。賀川の意識は聖化にあり、批判者の意識は新生に向けられている、というべきだろうか。

教会は聖化を論じるべきと思う。新生は瞬間的であり、繰り返すものではない。洗礼が繰り返されてはいけないように。だから、教会の中で、新生(信仰義認)を繰り返し説くのは、既に誕生し、成長が必要な人たちに対して、誕生について語っているようなものかも知れない。新生(信仰義認)は、この世に向けて語られるべきメッセージと思う。

ルターが教会の中で信仰義認を語って、時代が変わったというのは、教会の中に現世が入り込んでいて、それが反応したのではないだろうか。

もし、教会が聖化論に真剣に取り組むのであれば、新たなる活性化を期待できるような気がする。霊性への関心もまた、聖化論への取り組みの一貫かも知れない。

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新世紀の思想

実存の 哲学通り スコラへと
 世紀を開く 思想開拓

中世の思想はスコラ学でした。近代末の思想は実存思想でした。実存思想とスコラ学の融合が、新しい世紀の基礎になるのではないかと思います。

歴史的中世が採用したアリストテレスの代わりに実存思想を持ってきたらと思います。ベルジャーエフは、スコラには批判的だったかも知れません。その点は、少し修正したいと思いますが、…。

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戦後

イラク戦 戦後の日本 参考に
 あてがはずれて 今も困惑

天皇制を残してよかったのかも知れない。しかし、靖国神社問題は議論していて、まだ解決がついていない。もう、そろそろ、なんとかしないといけないと思う。

それにしても、イラクの戦後は、誰も予想できなかったのではないだろうか。

なぜ、こんなになってしまったのだろう。

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背教の分析

「背教の状態においては、人間の心に生得的な宗教衝動は、生ける神からそれ、様態的側面の多様性を伴う人間経験の時間的地地平に向けられる。これは、これら諸側面の一つの神聖化、すなわち、相対物にしか過ぎないものを絶対化することに起因する偶像の形成を、引き起こすのである。しかし、相対的なものは、相関するものとの統一においてのみ、その意味を現わすことができる。このことは、われわれの時間的世界の一側面の絶対化が、今度は宗教的意識において対立する絶対性を要求する相関的諸側面を、内的必然性をもって呼び起こすということである。換言すれば、あらゆる偶像は対-偶像を引き起こす」(ドーイウェールト著『西洋思想のたそがれ』)

著者は、一般には余り知られていないと思うが、改革派系の哲学者とのことである。

背教において、人間経験の時間的地平における一つの相対物の絶対化が起き、それが偶像である。偶像は、それ故に多数になる。

偶像は神の代替物であるから、絶対を要求するのだけれど、本来は相対である。偶像を捨て、神に立ち返る時、偶像は必要なくなり、本来の相対に返るのだろう。

人間の経験における遍歴は、こうして起きるのであろうか。しかし、遍歴は、何ものかを目指している限り、やがて終わるのである。終わった人は再び、遍歴する必要はない。

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2007年5月10日 (木)

小津世界

濃密な コミュニケーション 平凡な
 生活の中 今は昔か

小津安二郎監督の世界は、平凡の日常生活が基本にあるので、人によっては退屈を感じる人がいるかも知れません。しかし、会話が、少し饒舌、くどいと思われるくらい続くことがあります。「東京物語」にも、それがあると思います。これは、単純・素朴な生活の中であっても、それだけ濃密なコミュニケーションがある、あるいはあったのだということなのかも知れません。

一日中、家の中に一人、こもっていても、そんな濃密なコミュニケーションを感じている人もいるでしょうし、逆に、人ごみの中に出て、人一倍、孤独を感じる人もいるのではないでしょうか。

小津作品の世界は不思議な余韻を残す、忘れられない世界でもあります。

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物自体の認識

 ベルジャーエフのいう創造活動は現実の存在を予想している。カント哲学の認識論ではとらえられない現実の存在との関係のうちの活動が創造活動である。

 ベルジャーエフは一時、カントに熱中したが、カントが物自体のうちにおける認識を拒否しているのを受け入れることができず、それによってカント熱が冷めていったといっている。しかし、それでも彼がカントを非常に高く評価していることが彼の著書によってわかる。

 ベルジャーエフは認識によって存在を求めるのではなく、存在からの認識を求める。彼は理論理性による形而上学を拒否したカントの立場を守りつつ、なお物自体における認識を認め、新たな形而上学を作ろうとする。「形而上学の基礎となることのできる唯一の場-つまり、人間の霊的体験は神存在を証明するただ一つの証拠である」(『愛と実存』31頁)という。

 「人間の霊的体験は神存在を証明するただ一つの証拠」という言葉には賛同するキリスト者も多いのではないだろうか。しかし、「物自体における認識を認め」というのは何を意味しているのだろうか。五感を通さない認識というのであれば、分かるような気がする。しかし、それらも、もともとは五感を通して形成された認識かも知れないと反論する人もいるだろう。

「物自体における認識」とは、聖霊のうちにおける「認識」のことを指しているのかも知れない。五感を通過した認識でも、その土台の上に、異質な別世界からの要素が加われば、それが「物自体における認識」なのだろうか。

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『地下生活者の手記』

文庫本 地下生活者 手記を見て
 格差社会の 到来も読む

ドストエフスキーの『地下生活者の手記』が文庫本で、別の訳で出ています。格差社会に合わせた企画なのでしょうか。

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緊張

世紀末 崩壊続く 社会主義
 イスラムが出て 緊張続く

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ソ連

我が生は 何であったか 若き日に
 理想世界を 地に下ろさんと

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回心

ベルジャーエフは、哲学的自叙伝を残しているが、自ら回心を知らないと言っている。どう理解したらいいのだろうか。

ベルジャーエフによれば、正教にとっては回心はほとんど問題にならないようで、ベルジャーエフも自分には回心と呼ばれるものがなかった、もしあるとすれば、それは人生の意味探究の旅を始めた時だという。

こういう時、解釈が必要になる。ベルジャーエフが回心という言葉で何を考えていたのかということである。

回心が内面的には再生・新生に、また外面的には洗礼に結びついていることを思う時、正教にも洗礼があるではないか、だから正教だって回心を知っているのだ、と反論することもできる。

ベルジャーエフは一応、正教との信者なのだろうが、「自分がキリストの神秘的教会の会員であることを常住に感じている」(『わが生涯』280頁)ともいう。

この神秘的教会というのは不可見的教会のことなのだろうか。あるいは聖霊の実感、聖化の感覚なのだろうか。そして、普通の信徒であれば、まず、可見的教会の会員であることを言うのに、不可見的教会とのつながりを言うのは、彼の教会観が、一般とは少し違うということなのかも知れない。そして、その区別には、教派乱立の可見的教会を全部まとめて「見る」というメリットもある。

言葉は、自分が定義しているようには、他人は使っていないかも知れない。その時、自分の定義によって、他人の言葉を判断することを、普通のこととしてやっているが、当人は、どんな定義をしているのか、それを知るのも大切である。解釈する余裕を持たなければ、相手を誤解しているかも知れないからだ。

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2007年5月 9日 (水)

無神論への誘惑

 伝統的な肯定神学は神の弁護のために苦慮してきた。それは、肯定神学においては、神の性質を示す概念の超越性が十分強調されないため、たえず善人が無神論者になる誘惑が潜んでいるということである。そのために、神は、善人たちに対して、たえず弁護されなければならない運命にあった。その意図から、弁神論を書いた人にライプニッツがいた。

 ベルジャーエフは善人が無神論者になる誘惑を次の論理の中に表している。

 「①神は全知全能である、②ゆえに人間に自由をあたえればどうなるか、その宿命的な結果を最初から知っていた、多くの人々が悪に苦しみ滅亡することを予見していた、③それにもかかわらず、神はあえて人間と世界とを創造した」(『人間の運命』63頁)。

 「キリスト教の『摂理』に関する神秘的な教えは、神をこの世の主にして支配者と告げているが、この教えは、教養の高い人々を当惑させるばかりでなく、教育の遅れた、あるいはほとんど教育のない人々にも混乱を与えるに相違ない。われわれはどうして、神の摂理に関するこの教えとこの世において悪と苦しみとが勝利をおさめている冷酷な事実とを妥協させることができようか。わたしはこの困難こそ、無神論を生み出す主な原因の一つだと思う」(『愛と実存』42頁)

もちろん、さまざまな回答が試みられている。古くて、常に新しい問題である。

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応援歌

いつも聞く NHKは 応援歌
 頑張れ日本 負けるな日本

グローバリゼーションはというのは本質は米国化、地球規模の競争社会化ということなのかも知れません。その中で、日本人の心が耐えられるのか、それが今、試されているような気がします。耐えられないといった信号がニュースの中で出ていますが、そんな意識の中で、NHKのラジオ・テレビを聞いたり、見たりしていると、この番組、また、この局は日本人への応援歌を流しているのだなという感慨を覚えるのです。

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2007年5月 8日 (火)

渡る世間

自らの 内にやすらう ものなくば
 生きるは難し 鬼ばかりなり

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事件

事件起き 驚愕走る マスコミで
 米資本主義 反省の声

ラジオ深夜便「こころの時代」で、柳澤嘉一郎・筑波大学名誉教授が「利他心はどこからくるのか」という題で話され、最近の日本の憂うべき事件の原因として、米国資本主義の影響があるかも知れない、と話されていました。奥さんは、柳澤桂子さんで、著書が書店に並んでいて、ご夫人の方が今は有名と思います。

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座標軸

今を問う 座標軸なく 迷走す
 歴史に学べ 軸は何かと

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ベルジャーエフ評

宗教の エッセイストと いう評価
 文体見れば うなづくことも

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2007年5月 7日 (月)

スパイダーマン

テレビから スパイダーマン見て 思う
 スーパーマンと どこか似ている

善と悪 二元対立 アクションも
 男女の思い 善は勝つんだ

悪を見て 善の欠如と 思う時
 調和はあれど 米国嫌う

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2007年5月 6日 (日)

平和憲法

憲法は 律法的だ 実現の
 不能を常に 思わされると

体制の 批判を常に 呼び起こし
 かつては死者も 出たほどだけど

現実は 同盟が先 定着し
 その枠内で 平和尽力

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ロラン・バルト

俳句知り 衝撃受けた 評論家
 断片の我 新境地行く

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ルネッサンス

中世の幕引きをしたルネッサンスは、宗教改革とともに、西洋の近世・近代を開拓していった文芸運動であった、というのは教科書的な言い方である。神と教会との囚われ人から人間は解放され、その願いはやがて啓蒙時代に引き継がれたとも思える。そこにはカントがいた。

こんな歴史観は、今でも通用するような気がするけれど、私はとらない。

ルネッサンスに対しても、あれは古代ギリシャを正しく受け止めたのかという疑問を感じる。ブッセの「山のあなたの」という詩に込められた、あるいは「イデア世界」への憧憬に隠れている宗教性は古代ギリシャの完結性を突き崩すのではないだろうか。

吉満義彦は、こう言うのである。

「近代ルネサンスが古代復興と言ひますが、それは古代的人間の救ひを求める魂の深い姿は見てゐない。理想化された言はゞ抽象的古代化への憧憬に他ならなかつたのです」
(『近代の超克』冨山房百科文庫23、181頁)

「近代の超克」という座談会は、そのテーマと共に、繰り返し論じられてきた。しかし、そこで吉満義彦が注目されることは余りなかった。恐らく、その前提がなかったのだろう。キリスト教界も、吉満の名を忘却のかなたに置き忘れている。しかし、そういうことでいいのだろうか。そんな問題意識を、私は感じている。

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2007年5月 5日 (土)

「新しき中世」

世紀の変わり目のころ、「新しい中世」という言葉が一部の人々によって使われていた。しかし、ベルジャーエフの著書には「新しき中世」という言葉が使われていた。また、吉満義彦によっても「新しき中世」という言葉が使われていた。例えば、あの「近代の超克」座談会で、吉満は、こう言っている。

「ルネサンス的文化意志や自律的知性探究は古代的文化のロゴス性として、新しき中世的霊性の秩序において健全に新しく生かされ続けるもの、継続発展せらるべきものであるが、先づ魂の救ひのない処に一切の文化はバベルの塔となるのです」
(『近代の超克』冨山房百科文庫23、185頁)

彼は、「中世」という言葉で、歴史的中世を考えていたのではなく、そこにおける「永遠的なもの」を考えていた。彼は、こうも言っている。

「私は中世といふものをもつと包括的に取つて、近代の問題をもその一つの特殊問題と考へるもので、つまり中世といふのを近代に対する中世丈けでなく、現在にも生きてゐる永遠な人間性の課題の側から見てゐるのです」
(『近代の超克』冨山房百科文庫23、185頁)

日本の中世ではなく、ヨーロッパの中世に何か「永遠的なもの」、すべての時代に語りかける何かを意識していたのだと思う。

「新しき中世」という言葉は、あの人たちによって使われていた言葉なのだ、として、ここでは、「新しい」ではなく、「新しき」を使っている。この言葉が、どういう状況で生まれ、誰が使い、どういう運命をたどってきたか、調べれば面白いと思うが、今は手付かずにいる。

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エデンの回想

身近なる 断片集め その香り
 遠い昔の エデン回想

エデンいつ 歴史の中に 問われなば
 答えられずも 真実なりと

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回想法

回想法という精神療法がある。朝日新聞(2005年5月23日)の社説に、回想法の効果が紹介されている。回想法とは、高齢者の心理的安定を高める心理療法で、思い出を語ることで、認知症(痴呆症)の予防ができるのだという。「記憶をかき集めて、生きてきた道のりをたどる。脳を活性化させるとともに、過去の自分の姿から今の状況に向かう勇気をもらう」と紹介している。

司馬遼太郎の歴史小説を読むことの効果と、回想法とは無関係ではないかも知れない。すぐれた歴史小説家というものは、回想法という手段を使って、民族精神を癒す精神療法家なのかも知れない。

NHKのラジオ深夜便の人気も、回想法の大掛かりな実施と、その効果の現れを明示しているのかもしれない。

深夜便 回想法の 効果あり
 毎日聞いて 心健康

リハビリは 体だけでは ないですよ
 個人回想 怠らないで

自分史の試み、回想法、内観、カウンセリングなど、心の健康に日ごろ励みたい。瞑想も、その一つかも知れない。その勘どころは、意識化されたものの意味づけなのだと思う。もちろん、それが正しいかどうかは分からないが、仮説として当面、採用しておくといったことでもいいのではないだろうか。

回想法の解釈として、こんなことを考えた。

旧約聖書には、こんな個所がある。
「モーセは青銅で一つの蛇を造り、旗竿の先に掲げた。蛇が人をかんでも、その人が青銅の蛇を仰ぐと、命を得た」(民数記21・9)

一方、新約聖書では、こう言われている。
「そして、モーセが荒れ野で蛇を上げたように、人の子も上げられなければならない。それは、信じる者が皆、人の子によって永遠の命を得るためである」(ヨハネ3・14-15)

両方とも蛇が出てくる。もちろん、原点は旧約聖書の方の物語である。蛇とは、人間の不幸の原因を作ったアダムとエバの最初の罪(原罪)に関係する動物のことだ。原罪の原因は蛇の誘いにのったためといわれている。

蛇を仰ぐということは、原罪の原因の過程を、もう一度、意識化することを意味するのではないか。それが癒しにつながるとすれば、そこには精神分析と同じような癒しの過程が見えるのではないだろうか。ここに精神分析的プロセスが見えるのではないだろうか。

要するに、罪というものは、もちろん、ない方がいいのだけれど、罪をおかした時には、それから逃げることの中に解決や癒しがあるのではなくして、徹底的に意識化することが解決、癒しにつながるというのであろう。聖書は精神分析の原理を先取りしているように思えるのである。

回想法もまた、拡大解釈をすれば、そんな過程での癒しを求めているのではないだろうか。現在は過去に、また未来につながっている。そのつながりを見定めなければならないのである。

そして最終的にはエデンの園の回想、これが大切なのだろう。

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2007年5月 3日 (木)

洗礼

「彼も時代の子であった。洗礼なしには救われないという彼の思想を浄化したのは宗教改革者であった」

これは『改革派教理学教本』(岡田稔著、新教出版社)の93頁にある言葉である。彼はアウグスティヌスを指している。「洗礼なしには救われない」という言葉はアウグスティヌスに由来するのであろうか。

しかし、この注があり、こう書かれている。

「アウグスティヌスは洗礼を水と血(殉教)と意図(実際に受洗できなくても、受洗意志を持つ者は救われると言う)の三種に区別している」(96頁)

ふつう、「洗礼なしには救われない」と言われると、この洗礼は「水の洗礼」のことだと思ってしまう。しかし、アウグスティヌスによれば、「血と意図」においても洗礼があるのだという。血は現代ではあまりないだろう。しかし、意図は現代社会でもある。

水の洗礼を受けていなくとも、意図があれば、それは洗礼と同じ効果を持つということだろうか。それを認めた方が、説明しやすいケースがあることも事実である。

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教育再生

情報の 発信課題 教育の
 中に短詩を 取り入れるべし

今日(5月3日)の新聞に、5行詩の実践に取り組む学校教育の記事がありました。短詩の伝統のある日本で、意義深い実践と思います。若い人たちが、自分の意思を表現する手段を開拓していくことは大切なことと思います。

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セミ・ペラギウス主義

改革派の神学者、A・ホッジ著『神学概論』によると、キリスト教には三大教理体系があるとのこと。

第一はアウグスティヌス-カルヴィン的体系、第二はペラギウス-ソッツィーニ的体系、第三がセミ・ペラギウス-アルミニウス的体系。

この二番目は何であり、具体的には何が該当するか、それも大きな問題だが、一番目と三番目の比較について、こう説明されている(『改革派教理学教本』岡田稔著、23-24頁)。

「セミ・ペラギウス主義は宗教改革期にはアルミニウス派(抗議派)によって継承されたが、中世期のカトリック教会は、その礼典尊重、教権主義、特にジェスイット運動などによって全般にこの立場を採っていたと言いうる。正確にはドミニコ派とトマス派がアリストテレス化せられたアウグスティヌス主義を、フランシスコ派はスコトゥス派がセミ・ペラギウス主義を主張していた。しかし1546年から開かれたトリエント会議は、明白にセミ・ペラギウス主義に立脚していることは今日のカトリック教会で用いているカトリック要理でもかわるので異論の余地がない」

この本が出たのは1969年なので、昔のカトリック要理を指しているのだろう。要するに、カトリック教会の立場はセミ・ペラギウス主義なのだということ。

しかし、トリエント会議はトマスの『神学大全』を参照していたのであり、歴代の教皇もトマスに学ぶように促してきたのである。また、カトリック教会の立場がセミ・ペラギウス主義だということは、あの「義認の教理に関する共同宣言」をルター派と出す前と後では、その立場を変更したことになるのかも知れない。

ウェスレーは、この分類では第三の立場かも知れないが、彼もまた「信仰義認」を強調していたのである。

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ニヒリズム

ニヒリズム 神から離れ 人間の
 単独主義の 近代の壁

人間を 尊重しよう 近代は
 その限りでは 是認できるが

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2007年5月 2日 (水)

ポストモダン

ポストモダンの概念と「新しき中世」とは、どんな関係にあるのだろうか。

その時、そもそも、ポストモダンとは何か、という問いがなければならない。『二十一世紀と福音信仰』(千葉眞著、教文館)が、説明している。(32頁~)

それによると、現状に懐疑的な「抵抗のポストモダニズム」と、現状の積極的意義を称えようする「反動のポストモダニズム」があり、根深い対立があると、いう。

しかし、その中で、抵抗のポストモダニズムの思想においては、いくつかの共通項があり、その一つとして、こう説明されている。

「第一に、ポストモダンという概念は、それ自体「中世」と「近代」を画するようなカテゴリー的な変革ないし断絶を意味するものでは決してなく、むしろモダンの変質を示唆するという点である。換言すれば、モダンが量的に急激に変化した結果、その変化の極致ないし到達点として質的な変化をともなうポストモダンの諸相が見られ始めるにいたる、ということである。ここにポストモダンが、モダンに根本的に対立する新しいカテゴリーではなく、むしろそのサブ・カテゴリーとして理解されるべき理由がある、ともいえよう」(33頁)

かつて、吉満義彦は、歴史的中世の再現を求めているのではなく、中世の永遠的なものの妥当性を主張するのだ、という意味のことを言っていた。大まかに言って、中世は信仰の時代であり、神中心の時代でもあった。そんな中で、逆説的ではあるが、人間もまた生きていけるのである。

かつて、「新しき中世」を言った人たちは、現代のポストモダンの思想家たちよりも、あるいは急進的な立場であったかも知れない。なぜなら、ポストモダン(後近代)ではなく、新中世と言ったのだから。

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新アリストテレス主義

新アリストテレス主義という言葉に触れた。

「新アリストテレス主義とは、現代の国家を維持するためには、政治以前の文化的・宗教的な伝統が、共通の偉大な伝統が必要であり、そうでなければ、社会はバラバラになってしまう、とする考え方である」という(『ポスト世俗化時代の哲学と宗教』110頁)

本の訳者は、「ラッツィンガーにあっては、…ニヒリズム論が…新アリストテレス主義と癒着ないし野合している」(『ポスト世俗化時代の哲学と宗教』110頁)と解説で書いているが、ラッツィンガーとは現在のローマ教皇である。要するに、教皇は新アリストテレス主義の立場だということ。もちろん、アリストテレスに究極性を付与しているのではなくて、その形式を考えているのだろう。

ルターの本を読んでいくと、アリストテレスの見方にバイアスがかかるかも知れないが、トマス研究の中では、それが修正されていくだろう。

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2007年5月 1日 (火)

儒仏の時代

魂も 死後も語らぬ お釈迦さん
 いかに生きるか 哲学極む

怪力と 乱心知らず 孔子あり
 これも哲学 日本に根付く

長き時 儒仏の時代 この国に
 それを認めよ 哲学だから 

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教養時代

哲学の 相対性を 保証して
 大いに語る 教養時代

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