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2007年5月12日 (土)

ロシアの実存哲学者

 私が大学の四年間に得た唯一の収穫はベルジャーエフの著作を読むことができたというのに尽きると思われる。当時は、白水社から著作集8巻が刊行されていた。

 私はベルジャーエフによってロシアを知り、彼の描くロシアに強い愛着をもつようになった。私はこれからロシアと言われたら、ベルジャーエフが情熱的に描くあのロシアを思うであろう。当時は、ロシアという国は、既に過去の国になっていて、ソビエトという国が地上に存在していた。しかし、世紀を越えて、今またもロシアという国が地上に存在し始めた。このロシアが、あのロシアなのかどうか、まだよく分からない。

 ベルジャーエフの博識、彼のキリスト教に対する確信、彼の霊的洞察の鋭さ、彼の読者をぐいぐいひきつけていく文体の力強さ、彼の描く世界の雄大さ、これらは全く青年を魅了してしまうものである。とくに神学と哲学の分離に対して抵抗を感じつつも、それらを結び付けているけれど、どこか他人行儀に見えた中世スコラ学になじめない人間にとって、道はまさに実存主義のうちにおける神学と哲学の結びつき方にあり、その典型が彼、ベルジャーエフであった。それは啓示による哲学であり、啓示の光による哲学の透明化であって、啓示以前の哲学ではない。

 ベルジャーエフは最後の最後まで哲学者であって神学者ではないという。それは啓示というものを常に実存のうちに与えられる意味と考えるからであり、この啓示を科学的、実証的に取り扱おうとは決してしないからである。彼にとっては正に人間こそ存在するすべてに意味を与える主体、小宇宙なのである。彼は存在の意味、人間の運命といった事柄に集中しているのであって、神学も、その問題に解決を与えてくれる啓示として交渉しているのであって、そのようなベルジャーエフの中心的関心ごとから離れた場所における神学の拘束力を無視している。それ故に彼は良い意味で聖書を非神話化しつつ、彼の生地であるロシア的理念に従って、改めて現代風に神話を作り上げるのである。

 私はベルジャーエフの中に露魂洋才を見る。そして、その露魂がひどく東洋的なのである。我々はベルジャーエフによって正に東洋の真髄を垣間見る感じがする。それは終末論的太陽の存在全体に対する輝きであり、それに対して、人間の一部である理性だけではなく、人間全体をもって迎え入れる構えである。

 ベルジャーエフの著作には非常に強い勝利意識と人格から発する哀愁の調べがある。『孤独と愛と社会』の冒頭の言葉は、現代において哲学者の存在は悲劇的である、という印象深い言葉であるが、これなどは、ドストエフスキーの『地下生活者の手記』の最初の言葉、「私は病人だ……私は意地悪な人間だ。魅力のない人間だ」を思い起こさせるものである。そして、この鋭い哀愁の調べこそ現代における人間の絆なのである。

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