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2007年5月28日 (月)

トミスト

『トマス・アクィナス』(山田晶責任編集、中央公論社)は名著だと思います。この本で、トマスに対する興味が生まれました。しかし、その中で、びっくりするようなことを知りました。トミストの中にはペラギウス主義の人がいるというのです。

トマスは、最初は、セミ・ペラギウス主義であったが、アウグスチヌスを学ぶにつれて、その立場を捨てたと書いてきました。もちろん、そんな指摘があったのを繰り返したまでのことですが。

ですから、トマスはペラギウスの立場ではないというのは当たり前と思っていました。今でも、そう思います。しかし、トマスの教えを継承している、いわゆるトミストの中には、ペラギウス主義者もいるのだという指摘が、この本にあるのです。

有名な「恩恵は自然を破壊せず、却ってこれを完成する」という命題があります。その「完成」の意味は何でしょうか。こんな解釈もあるようです。

「或る人は、「自然が完成すれば恩恵になる」というように解釈する。あたかも種子が完成すれば大木に成るように、自然が完成すれば恩恵に成ると解釈する。この関係を倫理と宗教との関係にあてはめてみると、自然的に有徳の人がその徳を完成すれば立派なキリスト者に成るというように解釈される。これは自然と恩恵、道徳と宗教との関係を連続的に把えることであり、ペラギウス主義であるといって、トマスの立場は非難されるのである。
 私は、トミストたちのうちに、このようにトマスの「完成」を考えている人があり、そのような人々によって理解されたかぎりにおけると「トミズム」に対しては、上記の批判は当たっていることを認めざるを得ない」(45-46頁)

この個所には、正直、びっくりしました。恩恵と自然の関係には連続と断絶の両方があるのであって、一方だけの主張ではいけないのだと思います。

それにしても、ペラギウス主義を主張するトミストがいる、ということは、覚えておきたいと思います。いや、忘れることはできないでしょう。

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コメント

自然と恩恵との関係について、山田氏は、トマスの見解として、こう述べている。

「トマスはけっして、「自然が完成すれば、おのずから恩恵に成る」などとはいっていない、恩恵はあくまでも、自然の次元を超えたもの、超自然的なるものである。そのかぎりにおいて、たしかに自然と恩恵との間には断絶がある。しかし、恩恵は自然を否定しない、もしも恩恵が自然を否定するものであるならば、恩恵を受けるために人間は「不自然な」人間にならなければならないはずである。事実、「不自然な」信者も在ることは在るが、それはトマス的意味での「信仰の人」ではないであろう。恩恵は自然の次元を超える。しかしそれにもかかわらず、却って自然の意図を完成する。これがトマスのいわんとしたことであると思われる」(46-47頁)

このような関係は自然神学と啓示神学との関係にもあてはまる。トマスは、両方認めているのだが、その立場に関して、山田氏は、「かかる立場を認めるか否かは別問題として、少なくとも、トマスが自然神学と啓示神学とを、無原則に折衷して混合しているという非難だけは返上しなければならない」(47頁)と釘を刺している。ということは、逆に言えば、「無原則に折衷して混合しているという非難」があるということなのだろう。

自然神学を認めるということは、それで啓示の部分までカバーしてしまうことではない。しかし、そう誤解して、自然神学を拒否することもあるかも知れない。拒否していながら、理性的な議論を展開していく場合もある。

信仰と理性との関係というものは、いつの時代にあっても、古くて、常に新しい問題であるように思われる。

投稿: | 2007年5月28日 (月) 17時52分

「無原則に折衷して混合」という非難は、近世から見たら、そう見えるのだろう。中世的総合の解体が自分たちの存在のために必要だから。こうして、ギリシャとヘブライは分離して、それぞれの歴史を刻んできた。いつしかギリシャ優位の近代合理主義が行き詰まり、ポストモダンとの言葉が使われ始めた。それは、新しい「総合」への示唆でなければならないと思うが、そんな「総合」は、すでにヘブライの立場を認めていないモダニズムにはない。しかし、中世的視界からは、ポストモダンは「新しき中世」に方向づけられている。ギリシャは理性、ヘブライは信仰でもある。信仰と理性との関係が問われている。そんな時、トマス的総合が、やはり今でも有効である、と私は思う。

投稿: | 2007年5月29日 (火) 07時23分

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