« 憲法の話 | トップページ | 内村鑑三の遺言 »

2007年5月13日 (日)

創造活動による義認

 ベルジャーエフの創造活動の強調は、ロシア国民の置かれた物理的かつ精神的な自然的諸力に対して、ともすれば潜行しがちな彼岸性による挑戦ではなかったのだろうか。それゆえに彼は創造活動が人間を義認するとまで言ったのではないだろうか。この義認は、あの「信仰義認」の「義認」ではないであろうけれど。

 「創造活動による義認」と言う言い方は、確かに生成を重んじる実存主義キリスト教にふさわしいと思える。プロテスタント・キリスト教においては義認は活動でも行為でもなく、ただ、イエス・キリストに対する信仰に結びついているのだということは自明である。このことは、一面、活動性を軽視するように見える。しかし、本来パウロにおいて、「信仰」とはその内に愛による行為をも含むものを意味し、ヤコブの言う「行為なき信仰」というような、信仰と行為を分けて考えているのではない。

 しかし、ベルジャーエフにあっては、その極端な能動性から、義認というような人間にとって最も重大な言葉を、例え本質的にはそうでないにしても、受動的な響きのある「信仰」という言葉に与えたくはなかったのではないだろうか。

 しかし、真の信仰義認は激しく終末論的性格をもつものである。それはベルジャーエフの創造活動を否定せず、かえってその基礎にある。否定神学的創造活動と肯定神学的信仰義認は、自己の本来的世界を、彼が現に今いる世界において、どの程度認めるかの量的違いであって、質的には共通しているものであると思える。それは人間に伝達したい宗教的なものを表現する際の不可欠の条件としての概念使用に伴う誤解を避けるために、敢えて別の概念を結合させることによって、伝えようとしているかに見える。

 神の名は「不思議」という(士師記13・18)。肯定神学的思索の中では、人間にとってはたしかに最適な神の名前ではなかろうか。

 さて、本来の信仰義認の教義は創造活動と同様に徹底的に終末論的性格のものであるが、終末論的信仰には、全き自己放棄と激しい精神的緊張が伴う。この終末論的信仰は、伝統的信仰義認の教義をそのまま意味するのではなくて、現にそこにいる人間の存在のあり方なのである。義認は聖化に移行しなければならない。創造活動も、その聖化の中において考えられなければならない。

 伝統的信仰義認の教義も最初は終末論的信仰を宿していたが、客体化、合理化されるに及び、歴史の垢の如きものとして、人間の不徹底を反映して、受動的、消極的に受け取られるようになったともいえるのではないだろうか。この垢が歴史を継続させ、人間を固定化せしめてゆく。

 ベルジャーエフの創造活動は、言ってみれば、この歴史の垢に対する挑戦であり、宗教的啓示に対する人間の全面的応答であり、まさに彼にあっては終末論的キリスト教の信仰告白である。

「人間の創造的活動はどんなものでも終末的な活動である。世界の終末を促進させるのに貢献している活動である」(『神と人間の実存的弁証法』)。

|

« 憲法の話 | トップページ | 内村鑑三の遺言 »

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




« 憲法の話 | トップページ | 内村鑑三の遺言 »