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2007年5月13日 (日)

内村鑑三の遺言

無教会の藤井武は、内村鑑三の亡くなった昭和5年の7月に亡くなりましたが、その月に「亡びよ」という詩を書いています。その中に、こんな言葉があります。「『こんな国に何の未練もなく往ったと言ってくれ』と遺言した私の恩師の心情に私は熱涙をもって無条件に同感する」。恩師と言うのは、内村鑑三のことです。内村にはこんな遺言があったのでしょうか。「二つのJ」の一つは日本です。その日本に対して、こういう言葉を残したのでしょうか。

実は、塚本虎二にも、そのようなことを記した個所があります。「『俺が死んだら、内村はこんな国には少しの未練も有たずに死んだといってくれ』と言った先生を、…」(『内村鑑三先生と私』塚本虎二著、伊藤節書房、141頁)。これは昭和19年3月に発表された「私の先生」という文章の中にあるようです。

臨終の時の遺言は、よく知られていますが、内村には、こういう一面もあったのでしょう。それが、どういう経緯で語られたものか、それは分かりません。

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コメント

内村の死後、15年戦争が始まり、太平洋戦争の敗戦につながっていく。日本は亡国の一途をたどった。内村の遺言との関連を思ってしまう。イエスにも、そんな記事があった。

「そして、道のかたわらに一本のいちじくの木があるのを見て、そこに行かれたが、ただ葉のほかは何も見当らなかった。そこでその木にむかって、「今から後いつまでも、おまえには実がならないように」と言われた。すると、いちじくの木はたちまち枯れた」(マタイ21章19節)

内村は、明治33年、万朝報社の客員となり、36年、非戦論のために退社する。その時、「小生は日露開戦に同意することを以って日本国の滅亡に同意することと確信いたし候」と社長に告げたという。塚本虎二は、「先生は日露戦争は遂に世界戦争を生み、日本の亡国を来すと信じてゐたのである」と書いている(『内村鑑三先生と私』伊藤節書房、178頁)。

塚本は、また「今度の亡国的敗戦を四、五十年も前から既に預言して居り、殆ど文字通りにその預言が当った」と、内村について書いているが(『内村鑑三先生と私』伊藤節書房、167頁)、その預言とは、時期から見ると、あの日露戦争に反対して退社した時に当ると思う。しかし、日露戦争は勝利したではないか。確かに。しかし、司馬遼太郎は、その勝利の中で、国民の驕りが出て、亡国が始まったと見ている。その意味では、日本の亡国は、日露戦争勝利の中で始まったともいえる。

内村の最後の祈りとして、知られているのは、「人類の幸福と日本国の隆盛と宇宙の完成を祈る」というものであった。

投稿: | 2007年5月14日 (月) 07時58分

「ある初夏の夜、淀橋の浄水場のほとりを歩きながら、先生が私に言われた言葉--『俺が死んだら、内村は、こんな国には少しの未練も有たずに死んだ、と言って呉れ』という言葉を思出す」(『内村鑑三先生と私』246頁)とあります。内村が塚本に言ったというのです。

従って、最初に聞いたのは、塚本であり、それを塚本が他の人たちに伝え、その中に藤井もいた、こういう経緯があるのかも知れません。

投稿: | 2007年5月14日 (月) 22時09分

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