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2007年5月18日 (金)

聖霊の賜物

第一コリントの12章に聖霊の賜物についての記述がある。事実、そういうことがあったのだろう。そしてペンテコステ系の教会であれば、その個所を強調し、そういう賜物を得るように信徒を指導するのだろう。

そこでは異言の賜物を得るような指導があるのかも知れない。新生の時にも異言がある、なければならないとする指導だと、それは極端に思える。ペンテコステ系の教会で、そういう主張が、あるいはあるのかも知れない。

聖化の段階での異言に関しては、聖書で「ある」というのだから、否定はできないかも知れない。しかし、「あの時はあったけれど、今はもう必要ないので、ない」という説明で、真剣に受け止めていない、という解釈もあるだろう。

私は、ペンテコステ系教会の活動のインパクトを、もう一度、考え直すべきと思っている。それは、その立場になるというのではなくて、今の自分の立場で、どう受容したらいいかという問題である。

聖書が聖霊の賜物について記しているのは、とても意味のあることだと思う。それは、聖化の中の聖霊の働きについて、注意せよ、という促しと、私は受け止めている。

ペンテコステ系教会と同じ理解でなくとも、また、コリント教会と同じ働きにあずかっていなくとも、聖霊は、今、どういう形で働かれるのだろうか、そういうことを自分なりに、きちんと整理しておく必要性は認めている。そこには、不可避的に解釈が入るだろう。しかし、それは聖書の記述を尊重しているという意味であって、否定してはいないという意味を込めているのである。同時に、「今は、ない」という姿勢でもない。

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