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2007年5月 9日 (水)

無神論への誘惑

 伝統的な肯定神学は神の弁護のために苦慮してきた。それは、肯定神学においては、神の性質を示す概念の超越性が十分強調されないため、たえず善人が無神論者になる誘惑が潜んでいるということである。そのために、神は、善人たちに対して、たえず弁護されなければならない運命にあった。その意図から、弁神論を書いた人にライプニッツがいた。

 ベルジャーエフは善人が無神論者になる誘惑を次の論理の中に表している。

 「①神は全知全能である、②ゆえに人間に自由をあたえればどうなるか、その宿命的な結果を最初から知っていた、多くの人々が悪に苦しみ滅亡することを予見していた、③それにもかかわらず、神はあえて人間と世界とを創造した」(『人間の運命』63頁)。

 「キリスト教の『摂理』に関する神秘的な教えは、神をこの世の主にして支配者と告げているが、この教えは、教養の高い人々を当惑させるばかりでなく、教育の遅れた、あるいはほとんど教育のない人々にも混乱を与えるに相違ない。われわれはどうして、神の摂理に関するこの教えとこの世において悪と苦しみとが勝利をおさめている冷酷な事実とを妥協させることができようか。わたしはこの困難こそ、無神論を生み出す主な原因の一つだと思う」(『愛と実存』42頁)

もちろん、さまざまな回答が試みられている。古くて、常に新しい問題である。

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コメント

ベルジャーエフは、ロシア無神論における良心の契機を知り、そのような無神論にある深くて高い何かを認め、そのような無神論者を尊敬すると言っているが、彼の哲学はこの無神論における良心の契機に光を当てる程に深刻であり、かつ「異端的」であった。しかし、また同時に彼の哲学は、これほどまでに存在の意味に、存在そのものに自己を結びつけているのであって、見方によれば、彼は異端どころか、正統中の正統ということも言える。

投稿: | 2007年5月10日 (木) 12時15分

断崖
断崖に 立つ我を知る ただ一人
 二重予定と 神の善性

「なぜこの人が信じて、他の人が信じないのか。なぜ神はこの人を救って、あの人を救わないのか。こんなに大きな深淵を探索することができる者は、そうするが良かろう。だが断崖には注意すべきだ」(アウグスチヌス「書簡」194)

投稿: | 2007年5月10日 (木) 22時19分

「悪の起源について、神は悪をゆるし給うたかどうか、そしてゆるし給うたとするならば、それはなぜか、さらにそればかりでなく、なにゆえ神は御みずから悪をお造りになったのかというような問題について頭を悩ますのは、まったく余計な仕事といわなければなりません。そのようなことについては、絶対に理論的な確信が成立するようなことはないでしょう。肝心なことは、自分自身が悪をまぬかれることができるということ、そしてそのためにはいかにすればよいかということを知ることにほかなりません」
(ヒルティ著作集7『同情と信仰』カール・ヒルティ著、岸田晩節訳、白水社、324頁)

投稿: | 2007年5月16日 (水) 20時51分

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