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2007年5月12日 (土)

民主主義の時代

 我々は今、民主主義の時代に生きている。戦前と比べ、よい時代になったと思い、戦後の価値体系を大切にしたいと思っている。その柱が民主主義である。この価値を守ろう、戦争の犠牲者たちを思う時、その覚悟は固い。

 戦争という実存的経験は、今やそれを土台としての開花期を迎えているようでもある。しかし、この民主主義の時代、人間尊重の時代もやはり客体化を免れてはいない。人間の自然的生の開花期にあって、人間の意識は実存から離れ、皮相的意識を中心化する。預言者的人格は不断に永遠との関係の中に生きるが故に、彼は客体化、相対化世界の時代的風潮に対して常に反発する。それは彼が時代を超越しているがゆえに、時代の本質そのものが可見化、対象化するためである。民主主義も又、被造物であり、それ故に被造物の生命を持っている。

 そんなに冷たいことを言いなさんな。人間が大切にされる時代、そのどこが悪いのであろうか。この思いは、当然であり、私の中にあっても、疑うことを許さない。しかし、民主主義の名のもとに、人が死んでいく。人知れず、自らの命を絶っていく自殺者の数は少なくない。悲劇はただ、知られていないだけなのではないだろうか。

 そこで、実存弁証法的な思考実験をして、この時代の診断をしてみるのも意味があるのではないだろうか。

 ベルジャーエフは「民主主義的年紀は市民化の年紀である。この年紀は強力な人格の登場に敵意をいだいている」(『わが生涯』82頁)という。

 民主主義の関心は、現世的・地上的・肉体的であり、換言すれば政治的関心が強い。ある意味では、平凡な日常性の時代でもあり、無感激の中に人間を徐々に固定化・有限化していく。それも生命の御名によってである。「強力な人格の登場に敵意をいだいている」時代であるかも知れない。確かに、そうかも知れない。それでも、逆に、小市民的幸福な時代に生きたいと願い人たちは多いと思う。私も、それに共感を覚える一人である。

 しかし、このような民主主義の年紀もやがて、人間の実存弁証法によって内部から崩壊し、終わるのではないだろうか。不気味な兆候は、生きることの意味の喪失である。それはやはり精神の透明性に対する魂の不透明性を中核にして主張する人間の内的実存弁証法によるのである。

 あらゆるカイロスには深い永遠との接触があった。しかし、そのようにして得られた価値や意味も、それによって人間が解放されていくプロセスにあって、自然的人間、非本来的人間の幸福が目的化されていく。此岸的人間が中心を占め、永遠は見失われていく。そして、やがて転換が起きる。これが実存弁証法である。ある客観的価値の質的変化がそれを担う人間の交代とともに起こる。それはマックス・ウェーバーの説く、プロテスタントティズムと資本主義との関係にそのよい例を得るだろう。

 ベルジャーエフは、民主主義の価値を余り認めていなかったのかも知れない。彼にとって、それは彼が常に否定していた日常性の支配する時代だからである。永遠の絶対的否定性、生きとし生けるものを、そのとたんに全く活動できなくしてしまう虚無の炎に対して、民主主義は冷たくあしらい、ごまかしてしまい、そこから時間と永遠に対する無知が支配し始める。しかし、永遠を知るなら、そのような民主主義は根本的に否定されて、人間は永遠の成就、実現のために献身するであろう。永遠を知るなら、民主主義の常識によっては否定され、忘れられ、葬られた価値は、再び復活し、歴史を究極的意味に向かって激しく導いていくであろう。

 現在は歴史全体から見れば、小休止であり、一つの谷間であるかも知れない。人間の創造活動が停滞し、目的を見失った時代であるかも知れない。しかし、このような時代にも客観的終末に向かって、実存史は流れ続けていく。意味を問え! 実存史は、現代に語りかけている。

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コメント

実存史というのは、私の造語です。歴史の意味を内容とする歴史的時間というものです。ベルジャーエフは、どこかで意味を問う人生への転換が、自分の回心だ、といったことを言っていました。歴史の意味を問う、ということかも知れません。そして、それは自分が実存になっていなければ開示されないと思います。

投稿: | 2007年5月12日 (土) 14時47分

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