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2007年5月20日 (日)

歴史の権威

 ベルジャーエフは「全き人間」ではない。「全き人間」に内在する権威主義的性格は彼には無縁である。彼は歴史の場においては、いかなる権威も認めない。しかし、権威が存在するのは歴史の場においてである。ここには弁証法的思考が必要である。

 権威とは元来、社会の頑迷さを背景にして存在しているのであって、それ自身、肯定神学の用語である。しかし神秘主義は、この権威と社会的頑迷さという対立を意識の緊張の中に神秘的に超越し、全き自由の世界を開く。真の権威は全く自由に、権威的でない人間の自由な創造活動の中に不可見的に、インコグニトに伝わる。それに引き換え、可見的権威とは真の権威の歴史である実存史の象徴にすぎず、その象徴性のゆえに真の権威からは無限に離れているものである。

 可見的権威とは非実存的主体の参与を許す。しかし、不可見的権威とは実存の内にのみ開示される自由であって、そこは権威的人間の立ち入り禁止区域である。

 権威とは元来、実存主義とは無縁の言葉である。自分の安全を、技術的存在のままで客観的権威と外面的に結びつけて得ようとする不誠実な人間存在は実存の敵である。これが実存主義の根本にある英雄的力強さであり、決断、企投という意味に対する主体的参与の価値を無限に減ぜしめる客観的権威というものに対しては、実存主義は歴史の終わりまで戦い続けなければならない運命にある。

 ベルジャーエフはそのような意味において、歴史における権威を認めないのであり、キリスト教神学も肯定神学よりは否定神学の方が優れているとして、常に終末論的実存を確保するのである。

 それ故に彼は条件付きのロマン主義者である。古典主義は完成された形式である。しかし、完成された形式というものは、この歴史の場にあっては成立しない。この歴史の場において完成されたものを打ち出せば、それはどうしても抽象作用によらざるを得ないので、具体的人間の生命を殺してしまう。

 だが、彼には生命こそ、人間の具体性こそ、最も大きな関心である。跳躍の名人である彼は、それ故に、ロマン主義に傾く。彼はこのロマン主義的無形式の中に宗教的象徴を取り入れ、有機的統一を現していく。そこには不可見的無形式、しかし不可見的、宗教的な首尾一貫性がある。彼は「私の思考過程、認識過程が、人々がそれを普通よく叙述しているのとは異なった仕方で、行なわれた」(『わが生涯』302頁)と言っている。彼は彼の深い意識の現実をそのまま表現しているのである。

 それゆえに、ある意味では、ベルジャーエフ紹介は非常に困難である。彼の言葉をその全体から切り離すと、そのとたんにその言葉は死んでしまうからである。ベルジャーエフは、人間は人格、小宇宙、全体であるから、その本質は断じて客体化を許さないものであるのに、それを科学的方法である認識の客体化作用でとらえようとする時、俄然、英雄的な抗議者になり、非体系的になる。

 聖書は「霊の人は、すべてのものを判断するが、自分自身はだれからも判断されることはない」(第一コリント2・15)と言っているが、ベルジャーエフはそんな霊の人である。彼は、どこから来て、どこへ行くのかわからない聖霊の息吹に対して、それをもし、人間の形式の中で生かそうなどと形式に苦慮していたら、その現実を見失い、真理を知らせることができなくなってしまうと考えて、ドストエフスキー同様、あえて形式を犠牲にしたのであろう。

 彼はこう考えたのであろう。人間は内的にある全体者から分離している。それ故に、そのままでは破滅以外の何者でもない。そのため、社会的権力とその社会に秩序を与える形式が生まれたのである。形式は人間が分離し、自滅するのを防ぐ絆である。内面的な関係、愛という関係のなくなった人間に、その愛のかわりに人間を結びつけるものとして、形式が生まれたのである。であるから、内面的原理としての愛は形式を拒否する。なぜなら、それは形式を必要としないからである。形式は常に人間の結びつきがない、ということに対する弁証法的補いである。それゆえに形式は常にそれ自身、無意味である。彼はこの形式の代わりに理念を与える。一つの幻を、夢を語るのであり、この幻、夢で人々を内的に、主体的に結びつけようとしているのである。人間を歪め、人間を殺す形式の否定、それも、それに代わる神の現実としての幻、夢による積極的否定、ここに彼の非体系的哲学者としての言い分がある。

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