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2007年5月17日 (木)

神学者にあらず

 ベルジャーエフが、自分は神学者ではない、と主張しているのは、実存の意識の地平にやってこない客観的啓示を取り扱う意思はない、また啓示を客観化することによって生ずる権威づけが彼にとっては常に異質的なものに感じられたからであろう。神学者は、ある意味で科学的・客観的方法をもって啓示を取り扱う。これが学問の道である。しかし彼はただ自分の内に明らかにされた宗教的啓示に全力を挙げて応答していこうと覚悟するのである。そしてこの応答こそ、彼にとっては創造活動であった。

 彼の見解によれば、アダムの原罪によって人類全体を支配するようになった死の力、無化する力に対して、神は新しい、キリストに在る人間に世界を支配することではなくて、世界を創造することを求めている。「無からの創造」という神のわざに人間が参与することを求めている。われわれの言葉では、聖霊の働きの中で、それは行われると言ってもいいのだろう。

 肯定神学は支配的であるが、否定神学は創造的である。肯定神学では人間の実存の内に存在の究極的意味として開示される意味に加えて、相対的、社会的、歴史的な手段的意味しか持たないものも啓示の中に取り入れて尊重する。教会論にしても、教会の道具性には、手段性が付着している。しかし、否定神学は実存的であり、実存の中に意味を持たないものは、非終末論的であるとして片づけてしまうことができる。あくまで人間から出発する哲学は人間実存に意味として明確に関与していない啓示については語らない。

 彼は命題的啓示を受け取るというよりは、啓示そのものを受け取る。その一つなる全体的啓示によって内面にあらわされたものを、断言的に語り続ける。彼は命題的啓示の奥にある啓示そのものに向かうが故に、彼の主体は命題的啓示という場に生きている。そういう意味で彼は預言者的人格なのである。

 彼にとってはキリスト教は精神的革命であり、意識の深所における全面的な変化である。彼はその革命された意識でもって一生、夢を見続けてきた。彼の死後、発表された自叙伝には「夢と現実」という名前がついている。彼の夢は途方もないものである。そして極端を走っていた。預言でさえも、彼にとっては夢であった。彼はこの夢を見、夢を語り続けた。しかも、この夢は宗教的、客観的啓示によって決定されたものではなく、その現実を啓示から受け取りつつも自由な意識からの創造活動によるものであった。     

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