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2007年5月15日 (火)

実存的・終末論的哲学

 ベルジャーエフの哲学は徹底的に実存的であるがゆえに深刻であり、またその哲学は徹底的にキリスト教的であるがゆえに意味深いものでもある。

 ベルジャーエフ哲学の特徴の一つは、ロシア無神論における良心の契機を知り、そのような無神論にある深くて高い何かを認めている点であろう。彼は、そのような無神論者を尊敬すると言っているが、彼の哲学はこの無神論における良心の契機に光を当てる程に深刻であり、かつ「異端的」であった。

 「異端的」とは、ロシア無神論哲学の中にキリスト教的要素が混入されているなど思いもよらないであろうという意味を込めている。ちょうど、明治国家神道の中に、そして平田神道の中にキリスト教の影響があったという事実が、それらにおいては「異端的思想」であろうと思われるに等しい。

 しかし、また同時に彼の哲学は、これほどまでに存在の意味に、存在そのものに自己を結びつけているのであって、見方を変えれば、彼は異端どころか、正統中の正統と胸を張ることもできるだろう。

 ベルジャーエフの立場は徹底的に終末論的である。

 O.クルマンは、その名著『キリストと時』において、「徹底的終末論」を、キリストの出来事を、その本質において正しく把握していないということで、反駁している。それは、実存が無意味にならないように、本質を反省せよという声である。しかし、このような反省は、少なくともベルジャーエフにはあてはまらない。

 キリスト教実存主義哲学は、ユダヤ教や共産主義や無神論的実存主義のように、時の中心が未来にあって、その時の中心を実力で勝ち取ろうというような、クルマンが、そのようなものとして反駁する徹底的終末論とは違う。菅氏も「ベルジャィエフの哲学は、イエス・キリストの啓示から出て又イエス・キリストの啓示に終る所の新しい宗教的哲学と云う事が出来よう」(廿世紀思想)と言われているように、本質に対する顧慮は背後に退いており、不可見化されてはいるが、確かにそこにあるのであり、隠されてはいるが、本質から始まって、本質に終わるという線に沿っている。

 ベルジャーエフの立場はクルマンが反駁する対象としての徹底的終末論ではなく、クルマンの言いたいことの全部を確認したうえで、それを不可見化した徹底的終末論である。

 

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