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2007年5月11日 (金)

終末論的キリスト教

 ベルジャーエフは歴史的キリスト教の代わりに創造活動を強調する終末論的キリスト教を提唱する。それはなぜか。歴史的キリスト教が歴史と妥協しているからであり、この世の原理によって自分の家を作り、その家にあって自己満足に陥っているから、と言おうか。ベルジャーエフの終末論的キリスト教には家がない。あるのはただ創造的主体のみである。

 教会が歴史と妥協するとはどういうことであろうか。それは客観的終末(再臨)のカイロスを、未確定ということで、ある意味で、近くはないと、自ら決定していることである。現在と客観的終末のカイロスとの間に当然あるべき期間を前提している、その心の余裕を歴史的教会は持っている。しかしパウロには、そんな余裕はなかったのではないだろうか。自分が生きている間に、再臨があるという信仰がパウロの信仰ではなかったろうか。しかし、そういう意味では、パウロの信仰を、今、多くのキリスト者は持っていないのではないだろうか。残念ながら、私もまた、そこまでパウロ的、信仰的ではない。

 歴史的キリスト教は、客観的終末のカイロスは次の瞬間であるという意識を持ってはいない。しかし、原始キリスト教は、少なくとも、パウロは一貫して、この客観的終末のカイロスが次の瞬間であるとの信仰を告白しているのではないだろうか。

 この信仰告白こそ、また終末論的キリスト教の信仰告白でもあるのであろう。それは全き自己放棄を意味し、人間社会の中にありながら、その社会を支配している歴史性に対して非連続と分裂を引き起こすであろう。それは永遠の時間・歴史への突入を意味する。ベルジャーエフは彼の論文が急進的であると批判されたのを不審に思うほど終末論的であった。彼は恐れるところを知らず、自己の使命に忠実であった。デカルト的コギトの自己存在の確実性ではなくて、他界からの宗教的・超越的な確実性が彼の活動の原点であった。

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