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2007年5月 6日 (日)

ルネッサンス

中世の幕引きをしたルネッサンスは、宗教改革とともに、西洋の近世・近代を開拓していった文芸運動であった、というのは教科書的な言い方である。神と教会との囚われ人から人間は解放され、その願いはやがて啓蒙時代に引き継がれたとも思える。そこにはカントがいた。

こんな歴史観は、今でも通用するような気がするけれど、私はとらない。

ルネッサンスに対しても、あれは古代ギリシャを正しく受け止めたのかという疑問を感じる。ブッセの「山のあなたの」という詩に込められた、あるいは「イデア世界」への憧憬に隠れている宗教性は古代ギリシャの完結性を突き崩すのではないだろうか。

吉満義彦は、こう言うのである。

「近代ルネサンスが古代復興と言ひますが、それは古代的人間の救ひを求める魂の深い姿は見てゐない。理想化された言はゞ抽象的古代化への憧憬に他ならなかつたのです」
(『近代の超克』冨山房百科文庫23、181頁)

「近代の超克」という座談会は、そのテーマと共に、繰り返し論じられてきた。しかし、そこで吉満義彦が注目されることは余りなかった。恐らく、その前提がなかったのだろう。キリスト教界も、吉満の名を忘却のかなたに置き忘れている。しかし、そういうことでいいのだろうか。そんな問題意識を、私は感じている。

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コメント

吉満は、かつて、自分は近代に決別した、と言っていた。彼にとって、近代とは何か。こんなふうに言っている。

「近代人は無邪気な無信仰者ぢゃない。信仰を失つた悲劇人なのです。そこで見失つた神を自意識を通じて再び見出さねばならない。それまでは救はれない不安を本質とする悲劇人なのです」
(『近代の超克』冨山房百科文庫23、185頁)

明治以降の近代日本は、そういう西洋近代に出会い、恐るべき不安も経験したのではないだろうか。

投稿: | 2007年5月 6日 (日) 18時01分

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