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2007年5月31日 (木)

理性の二義性

「一見したところ、ルッターとヘーゲルの対立ほど大きな対立はない。ルッターは理性を悪魔的な能力として呪ったのに反して、ヘーゲルは理性を神化した。
 けれども、ルッターが語っている理性は、ヘーゲルが肯定した理性と同じものではなかった。ルッターが断罪した理性は人間的な理性であるに反して、19世紀初頭のヘーゲル、フィヒテ、およびすべての理想主義者が栄光を与えた理性は神的理性である。ヘーゲルが眼前にいだいていた理性は--そしてこれがここでわれらが最も多いなる関心をもつ点であるが--ルッターが理解していた理性と符合しないで、ルッターが恩恵のもとで理解したものに符合する。ヘーゲルによれば、認識をなすのは、人間的な理性ではなく、神的な理性である。なんとなれば、認識の作用は宗教的な作用であって、個々人の作用ではなく、普遍的な精神の作用である」
(『ベルジャーエフ著作集6 神と人間の実存的弁証法』)

要するに、理性というのは一義的ではないということである。

信仰のない人たちがドイツ観念論を学ぶ時、「恩恵のもとで理解した」理性といっても、よく分からないのではないだろうか。なぜなら、それらはキリスト教哲学なのだから。

理性は、恩恵のない領域から恩恵を受けた領域に移行して、そこで哲学の道具となる。それがヘーゲル哲学だというのである。恩恵のもとにおける生の反省は、やはり必要ではないだろうか。

もちろん、恩恵のもとにない理性に対しては、恩恵のもとにあれ、というルター的促しがなくなってはいけないのだけれど。

理性という言葉にルターは否定的な発言をしているが、それは恩恵の必要を強調するためであった。しかし、それは恩恵を受けた人間が、理性的活動をしてはいけない、という意味ではないだろうと思う。ここで、ルターを超えることも必要だとわかる。

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コメント

理性は恩恵を受ける前にもあるが、恩恵を受けた後にもある。なぜなら、新生していない人も、新生した人も、共に人であるのだから。

「トマスの「知性」は、合理主義的科学的理性ではない。そのような性格をも含んでいるが、根源的には存在を把握する能力である。したがって「神を見る」とは、存在そのものなる神を知性が把えることである」(『トマス・アクィナス』中央公論社、526頁)

トマスにとっては「神を見る」が、人間の最終目的であった。その知識を他の人々に分け与えることが、彼の人生であった。その恩恵をわれわれも受けている。21世紀の現代にあっても、13世紀の人は古くはない。


投稿: | 2007年6月 1日 (金) 06時59分

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