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2007年5月19日 (土)

神と人との協働

 キェルケゴールはキリスト教的真理を世俗化したといわれる。ベルジャーエフの創造活動も同様に世俗人の観念の領域におけるキリスト教の弁証であろうか。キリスト教宣教の中心メッセージは「イエスはキリスト」ということであるが、ベルジャーエフはこの単純なメッセージを時代思潮の中で終末論的に説明していったのではなかろうか。

 彼のキリスト教は、厳密には教会的キリスト教という枠には入らない彼独自のものではあるにしても、創造活動は世俗的文化創造活動ではなくて、教会の証し活動であり、信仰告白とも考えられる。その意味では教会の宣教活動と本質的には異なるものではない。いや、キリスト教思想として、宣教の条件作りと見た方がよい、安全かも知れない。

 創造活動は常に聖霊のうちにおいて行われる(『人間の運命』299頁)。これは創造活動が神の活動であるということである。しかし、それでも彼は徹底的に人間の活動であると主張するのであるが、これは神と人間とのカテゴリーが西欧とロシアとでは多少異なっているためである。それは神と人との協働活動である。救いを得るための協働ではなくて、救われたあとの協働である。

 ベルジャーエフは肯定神学的な神を考えていない。もし肯定神学の神が唯一であれば、私は破滅だと言っている。

 「私は神の実存を疑わない、しかしときとして、夢魔のごとくに私を襲う想念の浮かびあがる瞬間がやってくる。神と人間の関係を社会学的に主と僕の関係として把握する彼ら正教徒たちが、もしも、もしも正しいとしたならば、どうなるであろうか? そのときには一切は破滅する。その時には私もまた破滅だ! この夢魔は私には諸宗教の世界を徘徊する悪神のごとくに思われる。しかるに人々は、その奴隷的情念のゆえに、これを『善神』として夢想するのである。このような神にたいしては、異なった宗教的経験が主張されねばならない。神は人間によっては理解されない。神は人間に創造的応答という大胆な冒険を期待する。これがその経験である」(『わが生涯』282,3頁)。

 このように、彼は肯定神学的神を考えていないのであるが、それはなぜか。

 それは肯定神学の中に社会的秩序と形式があるからであり、彼の観念では、それらが堕落と不自由に結びついているからである。肯定神学的神は決定論的神であって、そこでは人間は服従するだけであって創造することはできない。創造活動は神を否定神学的に理解しなければならない。彼はこのように主張することによって、世界に対して自分を単独者として対立せしめている。これは人間を小宇宙ととらえる彼の自信である。小宇宙としての人間は、単独者、実存であって、自分の問題の解決を人間の集団の中における外的・客観的権威に期待する人間存在のことではない。

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