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2007年5月20日 (日)

回心

 回心は世界を二つの分ける原点である。もちろん、生涯にわたる回心を考えることもできるが、ここでは新生に結びつく回心を考えている。

 キリスト教は回心によって決定的に規定されていると思う。従って、回心なきキリスト教を考えることはできない。しかし、正教にとっては回心はほとんど問題にならないようで、ベルジャーエフも自分には回心と呼ばれるものがなかったという。

 もちろん、正教の公式見解が、そうだというのではなくて、ベルジャーエフの見解なのだということを断らねばならない。もっとも、こんな言葉もある。「わたしは、青年時代に、意味(神)と、永遠(救い)とを、探究しようと決心した。この探究こそ、私の回心ともいうべきであり、哲学への召命であった」(『ベルジャエフ』田口貞夫著)

 しかし、一方、彼は罪と悪をよく知っている。この世界は今や没落に向かってなだれ落ちている、とまで言う。神は絶対他者であることをよく知っている。

 そこで問いが起きる。回心なくして、罪・悪そして神を知ることができるのだろうか。
次の二つの聖句によって、それは矛盾ではないだろうか。

「だれでも新しく生まれなければ、神の国を見ることはできない」(ヨハネ3・3)、「それがきたら、罪と義とさばきとについて、世の人の目を開くであろう」(ヨハネ16・8)、

 すなわち、聖霊なくしては、真に罪が何であるかわからないのであるが、聖霊は生まれながらすべての人が持っているものではなくて、キリストに対する信仰という内的出来事、すなわち回心によって与えられるものであるので、回心なくして真に罪が何であるかを知っているのは矛盾であると思えるのである。

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