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2007年5月20日 (日)

挫折を知らず

 ベルジャーエフは生涯書き続けた。書くことは彼にとっては精神衛生学、瞑想と集中、生きる方法であった。彼はどんな条件のもとでも、どんな精神状態のもとでも、常に筆をとることができた。39度の発熱をおかして、激しい頭痛をおかして、またどんな不利な条件下でも、たとえば1917年10月のモスクワ砲撃の際にも、1940年から44年にわたるパリにおいても、書くことができた。

 彼は青年時代、マルクス主義に走り、それから理想主義哲学を通過してキリスト教に到達した。この過程の中に、彼は挫折を味わってはいない。彼には自分を否定するという面がほとんどない。それは、「破門や追放をば私は、あたかも私自身が破門を宣告したかのように感ずる。破門するのは私である。私が破門されるのではない」(『わが生涯』131頁)という程度に徹底している。

 挫折は非本来的自己の挫折でなければならない。本来的自己の挫折はヨナにおける大魚への道である。それ故に常に自己の本来性を意識し、それに固執していた彼は非本来性には徹底的に否定的であり、本来性には徹底的に肯定的であった。

 彼の本来性の自覚は「子供のころから、私は私の使命を強く感じた。私は人生においてなにを選び、どんな道を歩むべきかについて、思いまどったことはなかった」(『わが生涯』62頁)というほどであり、彼の生涯は、使命という一直線の道であった。

 このような彼の意識には、人類の最初の、それゆえ、原因という意味で最大のスキャンダルである原罪でさえも、積極的な価値をもつのであった。彼は客体化の世界を徹底的に否定する。しかし、客体化世界の原因は原罪であろう。

 原罪の問題は西方教会ではアウグスチヌス以来、大問題であり、今でもそうである。しかし、彼は、そのような意味での深刻さを原罪に見ていないのである。彼は、原罪のゆえに人間は偉大なのだと言う。おそらく、こうう言葉は西方教会からは聞こえてこないに違いない。

 「原罪の意識には、人間をいやしめるなにものも存在していない。それは『なんじはちりなればちりに帰れ』という人間存在のはかなさを信じることとはまったく意味が違うのである。まことに楽園喪失の神話は人間の偉大さを物語っている神話である」(『人間の運命』101頁)。

 無意識、意識、超意識と発展的にとらえていく彼のキリスト者意識にあっては、人間は原罪によっても決定的に有限化、絶望的な存在にされたのではなくして、人間の内に宿る神の像、人格の原理は、その壁を突破すると主張するのである。彼の哲学は、それ故、終始、人格主義の哲学でもある。そして彼はこの人格を闘争の旗印にし、この人格に全面的な信頼を置いているのである。

 楽園喪失は人間の不幸の原点である。その原因である自由意志が楽園追放後、救いとどんな関係にあるかをめぐり、16世紀の宗教改革は起きた。そして、その自由意志が救いの条件の中にはない、ということが、延々と議論されてきて、世紀末、カトリックとプロテスタントで合意された。しかし、ベルジャーエフは「楽園喪失の神話は人間の偉大さを物語っている」という。こういう言葉は、われわれが親しんでいる西方教会の、どこを見ても出てこないのではないだろうか。表現だけなら、ペラギウス主義の居直りのようにしか見えないのである。こんな注解を付すこともできるだろうかと思う。

 

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