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2007年5月16日 (水)

二重予定説をめぐって

『コミュニケーションと宗教』(小田垣雅也著、創文社)の第5章「デモクラシーと絶対無」の中に、「宗教改革の政治思想的意味」という項目があります。二重予定説と資本主義との関係について、ウェーバーの著書『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』への疑問を呈しています。自分も同じ疑問を持っていました。

二重予定説というのは絶対なのであり、富の蓄積が自分が救いへ予定されていることの確証になるのでも、それによって救いの予定の確証が得られるのでもないと、基本的には、そう思いますが、この二つが架橋されていて、資本主義への動機が強烈なものとなったのかも知れません。その架橋の部分が分からないのです。

もし、富の蓄積が救いの条件になるとしたら、それはルターの信仰義認とまっこうから対立する行為義認であり、ペラギウスの異端の教えそのものではないでしょうか。

なぜ、二重予定説が資本主義への動機となるのだろうか、これはウェーバーの著書を読んでいて、疑問に思っていましたが、他にも同じような人がいることを知って、私の疑問は自分だけの疑問でないことを知りました。

さて、二重予定を言うのですから、カルビニズムの信仰なのでしょう。その信仰には五つの特質があり、「聖徒の保持」の考え方もあります。これは確証の現在的認識であり、それを否定していたのがアルミニウス主義者らでした。救いの確証を求めて富の蓄積に走るという動機は、どうして生まれたのだろうかと思います。

救いの確証を富の蓄積に求めるというのは、やはりおかしな論理だと思います。

聖定のもとに予定がありますが、予定は人間には分からないのではないでしょうか。予定のもとにある義認も分からない。しかし、神の側の義認は人間の側の再生・新生によって、人間の側に伝えられます。

従って、確証は、再生・新生から、その原因として、義認、予定と考えていくしかないのだと思います。

信仰生活の中で、不安、疑いが起きるかも知れません。その時、もし、救いの確証を求めるのであれば、それは再生・新生のあとのプロセスである聖化の中にこそ求めるべきと思います。聖化における聖霊の満たしこそ、確証のためには求められるべきことと思います。そこには、確証に対する不安、疑いは消えているのですから。

ただ、そのようなキリスト者のエートスが、当時の生活様式が、資本主義的な生き方として世俗社会に浸透して行ったとは考えられることです。しかし、キリスト者が自分の救い、予定の確証を富の蓄積に求めたというのは、どう考えても分かりません。

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