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2007年5月30日 (水)

死の瞬間

『文藝春秋』2007季刊夏号で、渡部昇一・上智大学名誉教授が「日本人である私と宗教」という題で故石原謙氏(元東京女子大学学長)と中川秀恭氏(元国際基督教大学学長)について書いておられる。

石原氏の「悪魔が出てきて毎晩苦しめられている」という言葉を聞いて、弟子の中川氏は「先生、われわれは信仰を抱いて、深淵に飛び込む決心が必要なのではないでしょうか」と慰め、この言葉で、石原氏は安らかな死を迎えたという。

渡部氏の文章は、中川氏の最近の言葉を紹介している。

「これは禅の影響と思いますが、私はキリスト教徒ですが、死後は天国に行って神様のところで平和の時を過ごすとは考えていません。亡くなれば虚無に帰す。そのように考えています」(『到知』2007年2月号、13頁)

『なぜキリスト教か』(古屋安雄編、創文社、1993年)の中川論文「深き淵より」では、虚無の深淵、深い沈黙の中から神に呼びかける時、「われわれの耳は、沈黙のしじまの中から応える神の声を、果たして聞くことができるであろうか」と問いかけておられるという(581頁)。

「亡くなれば虚無」。どういう意味なのだろうか。「死後は天国に行って神様のところで平和の時を過ごす」とは、普通のキリスト者の考えていることなのではないだろうか。中川氏は何を考えておられるのだろうか。

ただ、死というものが人間にとっては絶対の孤独を意味すること、そして、それは深淵に落ち込む経験かも知れないということは、なんとなく分かるような気もする。その落ち込んでいく危機の中から、神に、イエスに信仰の叫びを上げればいい。それは、きっと聞かれるだろう。しかし、それは死の瞬間ではなくて、もっと前の、元気な時の、回心の経験なのではないだろうか。あるいは、そういう経験は稀有のものなので、肉体の死の瞬間でなければ与えられないのだろうか。

絶対の孤独といっても、神がともにいてくれる。それは聖霊の感覚なのだろうが、これがあれば死の恐怖はないと思う。

ウェスレーは「神ともにいますことが最もよいこと」という言葉を残した。最高の遺言である。人とのコミュニケーションが完全に絶えて、自分ひとりになっても、神がおられる実感の中で、人は祝福された死の瞬間を迎えられると思っている。「わたしにとっては、生きることはキリストであり、死ぬことは益である」(ピリピ1・21)。

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