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2007年5月16日 (水)

創造活動しての哲学

 ベルジャーエフの哲学は完全に人間中心主義である。しかし、この場合の「人間」とは西洋的な神(「霊」)との対立概念としての「肉」としての人間を意味しているのではなく、神の像を土台として神の似姿を受け止めていく、霊的体験によって開かれた人間の最も深い、それまで全く未知であった意識の活動に焦点を合わせる人間中心主義である。この点からベルジャーエフの哲学は人格主義哲学であるとも言える。また、バルト的神中心主義とは宗教的啓示の「科学性」を強調するか、「哲学性」を強調するかの相違であって、互いに共通なものがあると思われる。換言すれば、聖化における哲学、霊的人間の行う哲学とでも言えるであろうか。

 実際、ベルジャーエフは「ところで預言は神秘的であって、時間的な決定とはなんの関係もなく、また必然性の範疇による知識ではどうしようもない」(『人間の運命』328頁)とか、「しかし神の国はたんに待望されるだけのものではなく、また創造されるべきものである。終末論的意識は人間意識の深い変化を前提とする」(『わが生涯』282頁)といって、宗教的啓示を完全に、心理主義的ではないところの内奥的意識の現実としてとらえており、その人間の主体的参与を無視した啓示の科学的客観性に関しては全く沈黙している。

 ベルジャーエフは哲学的認識は「人間のうちに、人間を通して存在を知り、また人間のうちにおいて意味の問題を解決しようとする」ものであるといいう(『人間の運命』24頁)。それゆえに彼にとっては、哲学とは「精神」ないし「霊」を存在と考える精神の学を意味するのである。「哲学は絶対に客体化されない認識、すなわち精神を精神のうちにおいてあるがままに認める認識、精神を自然のうちに客体化しない認識」(『人間の運命』25頁)。というベルジャーエフにおいて、哲学とはまさに創造活動そのものなのである。

 我々は、この創造活動に対する情熱の中に、「私を一般の人たちの批判に引き渡さないで呉れ」というドストエフスキーの告白をベルジャーエフに発見できるに違いない。終生、哲学者であることを誇りに思い-しかし、この場合の哲学者とは過去の文献漁りばかりしていて、目が近視眼的になっている「過去の」哲学者ではなくて、ニーチェが「善悪の彼岸」(42-4)で描いているような、現実に根ざしつつ、未来への限りなき展望を与えるところの「未来の」哲学者を意味するであろう-、また、自らも哲学者であると自称していた彼は創造活動を絶えず中心に置いていた。「創造のテーマ、人間の創造的使命のテーマは、私の生涯の基礎的テーマである」(『わが生涯』284頁)と言っているように、彼には創造という観念が常に念頭にあったのである。

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