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2007年5月18日 (金)

疎外された人間

 実存主義は常に疎外された人間から出発する。「憂鬱」「孤独」など、世界からはみ出している人間が真に自己自身になりたいと願ってなす闘争が実存主義である。

 実存とは生の中に死を発見することである。日常生活では死は隠され、人間の支配下にあるすべては人間によって価値づけられ、意味付けられる。人間の役に立つように組み換えられている。しかし、このような日常生活の破られる時が来る。人間の根底に深淵が開けて来て、それまで役に立っていたものが役に立たなくなる時が来る。虚無が人間存在の根底から昇ってきて、人間全体を包んでしまう時、懐疑がデカルト的な方法的懐疑ではなくして、絶望的懐疑、人間全体を圧倒するような懐疑になる時、その時はじめて実存がわかる。

 「人間は疑惑や分裂や苦悩の段階を貫き通ってこなければならない。そして人間はこれらすべてを超克してはじめてで霊的(精神的)に鍛えあげられ、霊性のより高い段階に達する準備ができたというものである。ドストエフスキーは自分の信仰が無神論者どもが浅薄のためにまったく考えも及ばないところの、苦悩の地獄を通ってきたものであることを好んでくり返し告白している」(『神と人間の実存的弁証法』)と、ベルジャーエフはいう。苦悩の地獄を通ってきた者を世界を必要とする。世界は彼によって新しく意味付けられるのを待っている。

 「悪の痛ましい問題から逃れるために、人間は中立の圏内に逃げてみたいと思う。それはこのようにして神に対する自分の裏切りを隠蔽することを望んでいるわけである。けれども中立性というものは深みのないもので、まったく皮相にとどまる。悪魔は中立であるとすら言えよう。なんとなれば、悪魔が神の対立者であると思うのは誤解であるからである。神に対立する対極は神自身である。それは神の別な現象形態である。両極は相接触する(一致する)。この世の君主たる悪魔は中立の立場に逃避する」(『神と人間の実存的弁証法』)

 「神に対立する対極は神自身である」と言うが、こういう言葉は解釈を必要とする。中世から近世への以降の中で、また教派の関係において、対立の図式はあっても、共に、双方に義があった、そういう理解も在りうるのではないだろうか。

 しかし、人は決断しなければならない時もある。ヨナに神の声が聞こえた時、それは決断の時であり、中立はない。中立はナイン(否)を意味する。中立は、サタンの言い訳とも言える。そういう場面も、人間にはあるのである。

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