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2007年5月17日 (木)

肯定と否定

 さて、「一警官よりも権力のない」神は果たして正しい神なのであろうか。

 形式的な論理学だけしか知らない伝道者は、このような神観に対して夢中に反対するであろうが、信仰の真理、神観に関しては、バルトの有名な「ロマ書」の中で、彼が、天才的鋭さをもって描いているように、弁証法的に語られなければならないことを知っていれば、神は全能であるという命題が、その肯定神学的構造を背景にして、内的に確認されると同様に、神の否定神学的命題も、その正しさが承認されるであろう。

 なぜなら、神は概念で表すことが不可能だからである。神概念は絶えず神体験者の状況と相対して生まれるものだからである。「予言者の神経験に於て第一にその特色と感ぜられることは彼らが神の直前に立たしめられし実感を切実に持てることである。……神の永遠性や自立性は皆その根本的動機を神の現実的実感に持つのである。しからざれば神の永遠性や自立性につきて云々せんとすることすら無意義になってしまう」(『旧約神学の諸問題』浅野順一著、243頁)と言われている。

 救済史そのものだけを抽出した場合、そこに形式論理学的要素のあることを否定しない。そうでなかったならば、組織神学は成立しないであろう。しかし、問題を時の一点、すなわち現在に絞り、そこで神を感じる人間の認識を見るとき、そこで神を語る場合、救済史と世俗史の相互関係により、どうしても弁証法的に語られざるを得ないのではないだろうか。

 すなわち、このような状況から生まれた弁証法神学は、支配的な世俗主義への対決という意味で危機神学であり、ドストエフスキーの小説の持つような動力学的性格をもちつつ、正反対の概念同士を、その両概念の示す本体の内的・有機的一体性においてとらえることから、世俗に対してダイナミックな神の霊の流れの中に神の実在を圧倒的に伝達し、弁証していく宣教神学であろう。

 否定神学の求心的性格に創造活動が結びついている。その探求は神を概念としてではなく、あくまでキェルケゴールが発見したような実存的イデーとしてとらえ、それゆえに神話は不可欠であり、それによって人間の意識の隠された中心にまで入り込んでいく。ベルージャエフが否定神学をあくまで強調するのは肯定神学の外的性格を退け、否定神学的アプローチの中で、真理がつくる自由な共同体を求めているのだと思う。

 教会はあくまで、そのような共同体でなければならない。肯定神学の用語は外的であり、そして彼は、この外的性格のうちに自己の外なる非実存的権威に安住する富める人間たちに異質なものを嗅ぎ付けたのであろう。否定神学は、また革命的神秘主義ともつながっている。そしてこのような一連の言葉はベルージャエフのうちに有機的に統一されていて、彼はまさに現代の預言者として、そこに立っているのである。

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