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2007年5月16日 (水)

啓示からの哲学的認識

 ベルジャーエフにとって、哲学はすなわち創造活動を意味する。彼は次のごとくにいう。「哲学は生のいとなみであるから、真の哲学的認識は霊的体験をその基礎としなければならない。正しい哲学者はつねに生の源泉にふれていなければならない。哲学者の認識体験は正に生の源泉から生まれ出るものなのである。この意味では、哲学的認識とはまさに『存在の謎と生命の神秘を明らかにするはたらき』といってもよいであろう。哲学的認識は存在のうちに輝き、またそのそとを明るく照らす光明であって、ヘーゲルが考えたように理念から存在をつくり出すことではない。こうして、存在が認識するものに自分の謎を明らかにするのは、宗教的啓示によるのであって、宗教的啓示がなければ哲学的認識もなりたたない。認識するものはこの啓示に対して目をつぶり、耳をふさぐことができない。またこの啓示を無視して、『哲学的認識は自律的なり』と主張することもできない」(『人間の運命』19頁)。

 すなわちここにおいて、ベルジャーエフは哲学的認識の基礎には霊的体験、宗教的啓示が不可欠であると明言している。「哲学はたんに学的認識によってのみならず、また、宗教的経験によっても霊感されねばならない」(『神と人間の実存的弁証法』)。また彼は次のようにもいう。「存在の神秘は、人間のうちに、また人間を通してのみ-すなわち霊的生活や霊的体験においてのみ-あらわれる。……哲学は『叡知を愛すること』であり、人間のうちに叡知を開示することであり、またわれわれが存在の意味にまで突入しようと創造的な努力を重ねることである」(『人間の運命』23頁)。

 ベルジャーエフは哲学を、人間のうちに、また人間を通してのみ与えられる認識であるという。「およそ方法とよびうる限り、私が可しとする唯一の方法は、実存的・人間中心的な・霊的・宗教的な方法である」(『神と人間の実存的弁証法』)。「実存主義哲学は主観的方法を用いて、人間のうちに、また人間を通じて、世界の認識を肯定しようとする。つまり、実存主義哲学は人間中心的なのである」(『愛と実存』22頁)。

 彼はこの方法に全く信頼している。「啓示を人間に伝えるために用いられる唯一の機関は人間をおいて他にないということは忘れられてはならない。モーゼも予言者たちも啓示を告げ、神人イエス・キリストも啓示を告げた。また、使徒たちも、聖徒たちも、神秘主義者も、聖会博士たちも、神学者たちも、キリスト教の哲学者たちもすべて啓示を告げた。われわれは神のみ言葉の他は聴かなかった。そして、われわれが心の中で神のみ言葉を聴いたとき、われわれはそのみ言葉をわれわれ自身を通じて、つまり人間を通じて聴いたのである。啓示、即ち神のみ言葉はいつも人間を介して告げられた」(『真理とは何か』)。

 以上のように、ベルジャーエフにあっては哲学は宗教的啓示を不可欠に前提するのであるが、それも科学的思惟の対象としての宗教的啓示、すなわち人間の実存的理解とは無縁の、それ自身、客観性を強制する文献的事実としての、また、およそ科学的方法論で近づくことのできる宗教的啓示ではなくして、あくまで彼の内奥的意識における現実としての宗教的啓示である。「哲学と形而上学は客観的現実のかわりに実存において起こる諸変化を映すものであって、実存の意味を明らかにするものである」(『神と人間の実存的弁証法』)。「形而上学は存在の表現である」(『神と人間の実存的弁証法』)という。

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コメント

『実存主義 その生けるものと死せるもの』(フリッツ・ハイネマン著)の中に、「人間の創造的行為によって招来されるこの地上の変貌(聖化)などということは、幻想である」とある。著者の見解なのだろう。しかし、創造的行為は、義認の前の行為であれば、確かに、そう言えるのだが、義認後、聖化の中での行為であれば、どうなのだろうか。聖化は既に始まっていて、あとは、人間の側で応答し、その領域を拡大していくことだけが、人間の課題である。それをベルジャーエフは、哲学的認識において行われた時に、創造的行為と言っているのではないだろうか。

投稿: | 2007年5月16日 (水) 20時22分

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