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2007年5月18日 (金)

召命の拒否

「主の言葉がアミッタイの子ヨナに臨んで言った、『立って、あの大きな町ニネベに行き、これに向かって呼ばわれ。彼らの悪が私の前に上ってきたからである』。しかしヨナは主の前を離れてタルシシへのがれようと、立ってヨッパに下って行った」(ヨナ書1・1-3)。

 ベルジャーエフにとっては神の言葉に従うこと、それが創造活動なのである。ヨナは創造活動の使命を拒否した。その結果、彼は大いなる魚の中へ入れられ、行き詰まり、そして祈った。

「わたしは悩みのうちから主に呼ばわると、主は私に答えられた。わたしが陰府の腹の中から呼ぶと、あなたはわたしの声を聞かれた。あなたは私を淵の中、海のまん中に投げ入れられた。大水はわたしをめぐり、あなたの波と大波は皆、わたしの上を越えて行った。わたしは言った、『わたしはあなたの前から追われてしまった。どうして再びあなたの聖なる宮を望みえ得ようか』。水がわたしをめぐって魂にまでおよび、淵はわたしを取り囲み、海草は山の根元でわたしの頭にまといついた。わたしは地に下り、地の貫の木はいつもわたしの上にあった。しかしわが神、主よ、あなたはわが命を穴から救いあげられた。わが魂がわたしのうちに弱っているとき、私は主をおぼえ、わたしの祈りはあなたに至り、あなたの聖なる宮に達した。むなしい偶像に心を寄せる者はそのまことの忠節を捨てる。しかしわたしは感謝の声をもって、あなたに犠牲をささげ、わたしの誓いをはたす。救いは主にある」(『ヨナ書』2・2-9)

 信仰を拒否する者、創造活動を拒否する者はついにここまで来てしまう。

 人間の側には不平等がある。その究極が二重予定である。この不平等を理由に、創造活動をはねつけてしまったら、どうなるだろうか。ヨナ書の現実が待っているのである。背信の理由の中には、もっともと思えるものもある。しかし、最後、命の危機の中で、そのような理屈は、その正体を暴露する。
 
 背信の理由を調べれば、それは神学的問題を哲学的理性で追究したためともいえる。その道は、その中に不信仰が隠されていれば、破滅につながる。

 人は、実存に現れる神を、「二重予定の神」として告発してはならない。創造活動は、その人間の内面的意識に真の価値を現すものである。彼はただその価値を受け取り、その価値にしがみつけば良い。それが信仰であり、創造活動であり、神は人間からそれを求められるのである。

 自分を他の人間と比べたり、あるいは社会の不平等の故に創造活動を拒否する者にはヨナ書2章の嘆きが待っている。それ故に創造活動は人間の義務でもあり、又喜ばしい権利でもある。人間における成長に対する権利は失われてはならない。神は誕生させ、成長させる霊である。

 ベルジャーエフが創造活動を死に至るまで強調したのは、人間は誰でも本来的自己、自己自身になる権利があるのだと叫びたかったのであろう。現代社会になっても、その叫びは正に適切な叫びではないだろうか。

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