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2007年5月12日 (土)

学習の仕方

 ベルジャーエフはロシア・インテリゲンチャやロシアの巡礼に現れたロシア的骨格を精神に持ちつつ、西欧の教養を十分身につけている。彼はこと精神的な、思想的な領域に対しては驚くほど博識である。歴史的に重要な言葉を彼が別の意味に使っている場合もあり、少し考え込むこともある。解釈が必要だ。しかし、それは彼の有機的全体の一部分であり、全体の中でそれを見る時、ベルジャーエフの首尾一貫性をうかがうことができる。

 彼は懸命に学んだ。生涯学び続けた。情熱的に学び続けた。それは彼が他人の思想の中に自己を発見し続けたからであろう。

「私の諸能力は、本来の思考過程が私自身から発し、私が能動的で創造的な状態にあったときにはじめて、発現したのである。しかるに、受動的な習得、記憶的な操作が問題であったとき、つまり思考過程が私の外部にあったときには、私はいかなる能力も示すことができなかった。私はそもそもなにかを受動的に習得し、簡単にこころにとめて記憶しておくということは、とうていできなかったのである。私は特定の課題を課せられている人間の立場に身をおくということができなかった。それゆえ試験は私にはまったく我慢のならぬものであった。私は受動的に答えることができない。たちまちのうちに私自身の思想が湧きのぼってきて、それを展開させようとする衝動が私を襲うのである」(『わが生涯』29-30頁)。

 それゆえ、彼は徹頭徹尾、自己を語っているのである。キェルケゴールが主観的思想家と言われるように、またパウロ、内村鑑三が好んで自分を語る人であったごとく、彼もそのような人間である。

 しかも、そのような主観的思想家、好んで自分を語る人が、限りない影響力を持っていて、単に傍系として無視されえないのは、彼が人類の精神史に精通し、指導的な思想に深く内面的にかかわっていたからであろう。彼の哲学は、分離された部分の蓄積ではない。部分部分が有機的に関係付けられ、一つの生ける哲学になっている。だから彼の哲学はどの部分から入っても、直接全体を知ることができる。彼は常に存在の本源から哲学しているからである。それゆえ、彼の哲学が一つの宗教的使命を果たしているとも言えるであろう。

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