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2007年5月20日 (日)

人格の両性

 ベルジャーエフは彼独特の、世界に対する二元論的把握からして、人格に無縁な非人間的な堕ちた世界からのいかなる客体化作用、形式付与に対しても、徹底的に能動的であった。

 人格とは何か、人格とは男性的なものと女性的なものとが有機的に結合することである。人格は、その奥に深く女性的一致感を宿しつつ、なお社会的形式の原因に見える男性的構造的性格の歪みに戦いを続けることによって、その外的形式を内的形式との融合のうちに変質させる力である。

 ロシアの異教性とはその広大な国土を支配する物理的自然力の暴力に象徴されるごとく、人間の精神性における母なる大地、女性的なものによる理性に対する「暴力」のことである。ベルジャーエフはその神秘主義的性格からして、この女性的なものの一致感に深く陶酔しつつも、なお領土的、闘志的気質、その貴族性から、社会の無味乾燥な、女性的なものの全くない、ただ男性的なもののみの疎外的形式に対して断固、戦い抜いたのである。

 人間は真に人間になるためには、男性は女性を必要とし、女性は男性を必要とする。しかし、そのような要求から自然主義的に結びつく男女両性はそれ自身一つの抽象であり、現実的には不可能であるが、ただ全き人間の象徴としてのみ意味がある。そして、そのような自然主義的男女両性の結合は、ただ精神(霊)の中にあって、真に具体性、現実性を得るであろう。そして、そのような姿こそ普遍的教会の姿であり、理性的構造的であるローマ教会はその男性的側面を、また感情的一致的である正教会は、その女性的側面を表していると、哲学的に言えるのではなかろうか。

 ベルジャーエフは外に向かっては非常に男性的力強さにあふれているが、その内面においては深く女性的な魂であり、絶えず深い一体感を求めていたのである。それゆえに彼は絶えず単なる社会的形式という半分のみの男性性を否定していった。

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