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2007年5月26日 (土)

国教

中世では、キリスト教は国教であった。そんな形の中では、求道心の純粋さが保持できるのだろうか。世俗社会の価値が教会の価値、神国の価値と同列でありうる社会では、福音の真実が、どのようにして保てるのだろうか。キリスト教国教化の前には、キリスト教の公認化があった。その流れの帰結が、国教化であった。そして、国教化が問題なのであれば、公認化も問題ではないであろうか。公認化から国教化への移行は、キリスト教の勝利なのだろうか、それとも敗北なのだろうか。公認化には、勝利といった物語が語られているのではあるが。

「ベルジャーエフが以前から抱いていた国家に対するアナーキズム的見解は、ドストエフスキーの「大審問官物語」のなかに、宗教的根拠を見出したのである。すなわち国家は、荒野におけるキリストの誘惑の一つであることが明らかとなった。ドストエフスキーだけがそれを「大審問官物語」のなかで正しく解釈したが、そこからロシア独裁政治と正教会に関する結論を出さなかった、とベルジャーエフは言う」
(『ベルジャーエフ哲学の基本理念』R・レスラー著、松口春美訳、行路社、71頁)

キリスト教の国教化は、キリスト教の勝利に見えても、視点を変えれば、サタンの誘惑に屈したことになるかも知れない、ということである。ドストエフスキーのカトリック嫌いは有名だが、こんな点に、その理由があるのだろうか。

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